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妙木忍『女性同士の争いはなぜ起こるのか 主婦論争の誕生と終焉』青土社 2009年

 1955年の日本での初めて「主婦論争」から1960年,1972年の主婦論争,1980年代のアグネス論争,1990年代の専業主婦論争,そして2000年代の「負け犬」論までの戦後主婦論争史。時代の変化により論点が変化しながらも,女性同士が争っているかのような論争が何度も繰り返されてきた。女性が分断され争っているようでいて,論争の奥に女性たちが市場労働と家事労働のあいだで揺れ動かされるという,むしろ共通点が浮かび上がる。その点を,著名人の論文,エッセイ,さらには,週刊誌や新聞に寄せられた無数の投稿からも丹念にフォローした上で明らかにする本著は,まさに労作である。
 私の記憶にあるのはアグネス論争あたり。あのときは,簡単に林真理子派を自認していた。でも,慌てて言い訳を付け加えれば,「職場は聖域」として子連れ出勤に眉をひそめていたわけではない。「楽屋に連れていかれるなんて,子どもがかわいそう,保育園のほうがいいはず」という子ども目線からだった。が,そんなことは論争のテーマにすらなっていなかった。上野千鶴子がアグネス側にたったというのも,違和感があった。保育園に,なぜ預けない?「子どもは母親が育てるべきであり,たとえ仕事中でも母親が責任を持って育てるべきだ」という思い込みがぷんぷんするのに,と思った。その点はさすが江原由美子が当時指摘していたという。アグネス擁護論は,「働く女の代弁」のみならず,「子を託児所に預けて働く大多数の母親に対する批判」にもなると。しかし,アグネス批判は,母子一体論批判ではなく,子連れ出勤批判であった。そこには,当時の公私の分離規範が関わっている。そうか,そういう論争だったのか。他にも,アグネスは恐らくスタッフに子どものことを任せてもいただろうが,スタッフが逆に子連れ出勤してアグネスに子どものことを任せられるわけではないだろう。権力関係の気配がする。そんなアグネスが働く母親の代弁なんて欺瞞ではないか。そしてアグネスの夫すなわち子の父親は何をしているのかも疑問だった。だが,当時は,そんなことも論争になっていなかったのだと唖然とする。
 本著は,各論争の冒頭に社会史的背景を統計からフォローしてくれる。たとえば,アグネス論争の当時は,女子雇用者の増加,有配偶化,中高年齢化。アグネス論争は,江原由美子が指摘したように,「働く女性対専業主婦という構図ではなく,むしろ働くのは当然という前提」になっていた。しかし,なぜ子育てするのは母親であり父親ではないのかについては言及されない時代だった。アグネスと比較されたのは松田聖子。女性間比較だけが生じていた。なぜ女性が仕事と育児のジレンマを抱くのかを論点にしない上での母親比較は,女性たちを分断することになった。しかし,働く個々の母親が,松田聖子的に仕事の場では家庭や子どもの存在を感じさせず仕事をこなし,家庭では母親・妻の役割を演じても,相矛盾する役割期待に葛藤を抱えていた。まだ世の中の荒波を知らぬ私はそんな葛藤つゆ知らず,あまりにお気楽だったと反省する。
 本著でいう第5次主婦論争,すなわちアグネス論争に続く専業主婦論争は,石原里紗の『くたばれ!専業主婦』と林道義の『主婦の復権』に代表される。私はどちらもそのタイトルから訝しく思い,手に取ることすらしなかった。著者は,どちらの本もさらには前後する論集等も丹念に拾い,分析を進める。タイトルからのイメージとは異なり,林論は専業主婦擁護論ではなく,石原論も専業主婦バッシングではない。石原論は主婦役割を完全に否定したが,自己決定を重視し,自己決定によって専業主婦を選んだ女性は批判しなかった。「ギャルママ」「グータラ主婦」は良しとした。そして経済的基盤に警鐘を鳴らしても,リスクを引き受ける自己決定もありうるとした。他方林論は母性と主婦役割を礼賛したが,性役割の達成など気にせず自己利益を優先する主婦を「醜い主婦」として非難した。すなわち,自己利益を優先する女性たちを抑えんとする反動の思想だった。
 石原と,第6次主婦論争,すなわち「負け犬」論争の口火を切った酒井順子は,規範的強制の拒否(「専業主婦菌」と「子育て教の布教」),専業主婦を準拠対象にしていない点等に共通点がある。しかし,石原がこだわった性役割への疑問,自己犠牲の問題化は,第6次主婦論争,すなわち負け犬論争では,姿を消す。もう,性役割は争点となるには効力を失ったのだ。私は,酒井の『負け犬の遠吠え』を,くすくす笑って読み飛ばすだけだった。しかし,本著はガッチリ『負け犬の遠吠え』にも取り組む。負け犬論争では,もはや女性たちは争わない。「負け犬」とは逆説的な自己肯定。「一人でいても,幸せ」というと軋轢が生じる,だから「負けてます」と先に言った方が楽。「負け犬」とは,既婚か未婚かで女性の勝敗を決める評価軸を無化し,他者評価でなく自己評価で生きる女性の生き方,逆説的な自己肯定なのだ。そうなると,勝ち犬たちも次々と「負け自慢」を始めた。「負け自慢」をする女性たちには,もはや対立は生まれない。しかし,メディアは盛り上がった。「負け犬」「勝ち犬」という「犬」間比較だけではなく,「犬」内比較―経済階層格差を含む比較に。そして,「勝ち勝ち犬」すなわち経済力が高い上結婚もしているというモデル(緒方貞子ほか)が評価されたが,「結婚」「子どもがいる」状態が評価され,主婦役割,家事能力の高低は問題にすらされなかった。性役割自体は弱体化し,女性たちは,性役割規範の再生産を果たさない程度に自由になったのだ。それも,余裕にみちたユーモアをもって。
 ライフコースは多様化した。しかし女性たちを分断した論争は終焉したのだろうか。本著は女性同士の争いはこれからどうなっていくのかという論点にも突き進む。確かに主婦は準拠対象ではなくなった。しかし,家事負担を多く担っているのは依然として女性である。性役割規範が弱体化しても,性役割は解消していない。市場労働と家事労働をめぐる家事労働をめぐる男女間の非対称性が解消されるときまで,ライフコース選択(結婚するかどうか,出産するかどうか)をめぐる女性間の対立と葛藤は何度でも繰り返されるだろうと。市場労働と家事労働をめぐる男女間の非対称性は,結婚・出産に特別な意味を付与し続けるだろうからと。
 私たちは,「女性同士の争い」という外観にとらわれるべきではないのだ。男性,社会にも関わる問題が,あたかも女性だけの問題として構築されているからこそ,「女性同士の争い」のような形状が出てきてしまうのではないか。私たちは問題の本質を見抜くべきなのだ。本著を指針に,私たちは何が解決され何が解決されていないか,見極める注意深さを持ちたい。(良)
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