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シルリ・ギルバート著 二階宗人訳『ホロコーストの音楽』みすず書房 2012年

 ホロコーストを理解するために,多種多様な「慰めの物語」,救済の言説が繰り返されてきた。音楽もまた,人間の尊厳を擁護する手段であったと語られてきた。本著は,救済の言説が善意に基づいていることを理解しながらも,そのような単純化に挑む。すなわち,ゲットーも収容所も,その外の社会と同じく,様々な階層があり,音楽もその集団ごとに多層的であった。本書は,ドイツ人共産党員,ポーランド人,ユダヤ人,それぞれの音楽に関する経験をつぶさに叙述し,記憶を重層化する。
 ワルシャワとヴィルナの2つのゲットーと,ザクセンハウゼンとアウシュビッツの2つの収容所が,事例として取り上げられる。
 ワルシャワゲットーでは,栄華を極めたひと握りのエリート(ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察など)が,カフェやクラブで山盛りの食事,飲み物,生演奏を楽しんだ。一方で,劣悪な居住環境にすし詰めとなった人たちが,病気や餓死,疲労で多数死んでいった。人々にとって,音楽は強要される屈辱の一つでもあった。たとえば,親衛隊は,群衆の前で,障害者老人,太った者と痩せた者,背の高い者と背の低い者を組み合わせて,ワルツを踊るよう命じ,大笑いした。
 音楽は物乞いとも結びついていた。わずかな小銭を得ようとして,楽器を演奏する者,親に監視されながら合唱する子どもたち。本書が紹介する物乞いの歌は,彼らが目にしていた悲惨な状況(通りにあるひからびた死体など)を生々しく伝える。ゲットーの劇場でつくられた歌にも,人々を励ます宗教的なものもあるが,飢えと病気,恐怖が鮮明で,冷笑,絶望がこめられたものも少なくなかった。
 リトアニアのエルサレムと呼ばれたヴィルナでは,戦時中も文化活動は活気を保った。ドイツ占領下の1941年末までに34,000人ものユダヤ人が殺され,残ったのはわずか20,000人。共同体には恐怖に支配されながらも,迅速に再生しはじめた。トラウマを負った共同体が,受けた衝撃を中和するかのように。音楽施設も速やかに再建された。個人が経験した出来事の記録であり,集団の受けた苦しみの証言ともなる歌が人々に親しみのある旋律にのせられて,歌われた。それらの歌は,共同体のアイデンティティを再確認させるものであるとともに,後世に向けた記録でもあった。他方,20代の若者からなるパルチザンも歌を自分たちの主張を訴える効果的な手段と考えて,積極的な抵抗運動を鼓舞する歌を作った。ゲットーの劇場も盛んだった。劇場での音楽は,住民たちの慰安だけではなく,労働への意欲を高め,抵抗運動を萎えさせ忍従の意欲を高める助けにもなった。ユダヤ人警察,評議会は,劇場公演に実利も見出していたのである。
 収容所は,ゲットーより過酷な状況であり,そこでは,肉体的な欲求が,感情や道徳より圧倒した。ザクセン収容所には,当初は政治犯収容者たちが収容されたが,同性愛者,犯罪者,ユダヤ人も収容されるようになる。食事の配分量,配給,部屋・労働の割り当て,手紙等の受け取り等あらゆる面で,国籍,収容理由等で,大幅に扱いが異なった。ドイツの政治犯等は優遇される一方,ロマ,エホバの証人,同性愛者,ユダヤ人らは残虐な扱いを受けた。音楽活動の機会をもっとも享受したのも,ドイツ人政治犯収容者であり,彼らと密接な関係を築いたチェコ人学生も,幅広い音楽活動を展開する等,一定の文化的知的生活を送ることができた。政治犯収容者は,歌が収容者を鼓舞し,励ましたと誇る。しかし,恩恵を受けられたのは,限られた一部であった。さらに,これらの歌は作者が考えるほどナチスにとって危険ではなく,むしろ労働者を自分の陣営に引き付けるために流用すらしていた。同志愛や連帯を強調し共通の敵に触れる同じ種類の歌を用いたナチスと共産党は,音楽について共通の理解をしていたといえる。親衛隊が政治犯たちの活動を知っていながら禁止しなかったのは,ただの能天気に帰すことはできない。
 これに対して,ポーランド人収容者が接した音楽はより限定的であった。収容されたポーランド人音楽家の歌は,収容生活の非情な出来事を怒りや冷笑をもって生々しく描き出す。穏健なドイツ人の歌とは異なり,ナチスをパロディ化し歯に衣着せぬ批判をし,特定の人物を非難した。ドイツ人の歌唱は集団で行われ,団結と士気を高めたのに対し,そのような機会のないポーランド人は,食料や煙草と引き換えに,収容所仲間の小さな集まりで,警備兵を警戒しながら歌った。
 ユダヤ人収容者が経験した音楽は自発的というより強制されたものであった。彼らは頻繁に音楽による拷問の対象になった。疲労困憊したユダヤ人たちは,時には大広間に一晩中立たされ,食事や休憩もなく,ぶっ通しで歌うことを強制されることもあった。この虐待の最中に多くの者が消耗し,死んだ。非ユダヤ人が入ることによってユダヤ人収容者による音楽集団が組織されることもあったが,その情報は乏しい。それを知る者のほとんどが生き残らなかったからである。
 そして,他の収容所よりはるかに死亡率が高かったアウシュヴィッツ。そこでの音楽活動も,苛酷なものであった。収容者によるオーケストラは,毎日朝夕労働部隊が行進しながら収容所を出入りする際にゲートで演奏し,処刑時の「伴奏」も行った。奏者にとっても,重病人や死亡した仲間を担ぎつつやっとの思いでのろのろ歩く者にとっても,極めて悲惨な光景であった。収容者の意思を圧殺するこの行進は,親衛隊にとっても,自分たちの優越感を強く誇示させ,士気を持続させる,重要な儀式だったのではないか。さらに,親衛隊は,音楽家に,非公式の演奏(誕生祝い等)も依頼した。洗練された文化という観念に価値を置く親衛隊にとって,収容所の出来事と音楽とは矛盾するとは考えられていなかったのである。
 音楽は,絶滅工程のなかで重要な役割を担った。移送されてきた者たちが到着し「選別」される際も,音楽が伴奏された。到着した者たちを「安心」させる役目を担わされていたのである。親衛隊は,収容者から職業演奏家たちを探し出すのに腐心した。オーケストラのポストを得た者たちは「特権的」な範疇に入る。しかし,彼らも「選別」され,楽員の構成は絶えず変わった。
 親衛隊は,ザクセンハウゼンと同様に,加虐趣味的に音楽を使った拷問を頻繁に科しもした。ザクセンハウゼンの一部の収容者に許された娯楽はほとんどありえなかった。多くの収容者の消耗は極みに達しており,肉体的な生存闘争しか残されていなかった。しかし,ときに小さな集まりの中でアヴェマリアが歌われ,ひととき心を鎮めてくれることもあった。資料が不足するため,状況の解明は困難であるが,しかし,歌は,他の収容所との情報交換のツールとなることもあったし,戦争前の日々や収容所の外の世界へのほんの一瞬の逃飛行も可能にした。さらに,収容所の暴力をむき出しのまま記録する行為でもあった。それらの歌は口承に頼るしかなく,短い歌詞にならざるを得なかった。他方,オーケストラの楽員は一般収容者に比べると自由であった。それらのメンバーが作成し首尾よく保持していた歌にも怒りと恐怖に満ちているが,その長さからして,作者が一定の時間,自由をもちえたことを示唆する。
 本書には,楽譜のほかゲットー内,さらには収容所内の白黒写真が数点おさめられている。そのひとつひとつに向かい合うとき,ここに写された人たちの生と死を思って言葉を喪う。たとえば,アウシュヴィッツTのゲートにつながる絞首刑台のある広場で,オーケストラの演奏風景が撮影された一枚の写真。親衛隊員が撮影したにちがいないその写真には,撮影者に振り向いて笑顔を見せる楽員の姿もある。わずか数十メートル先に死体焼却所がある広場での,収容所での「日常」の一枚。犠牲者の「日常」がリアルに感じ取れる。
 生存者が残した証言だけではなく,生き延びられなかった人々の経験も,膨大な記録(断片的な資料も含む)から丹念に拾い上げられた労作を,著者は,ワルシャワゲットーとソ連の収容所を経験した祖父母に捧げている。(良)
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