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山口智美・斉藤正美・荻上チキ著 『社会運動の戸惑い フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』勁草書房 2012年

 本書は、「ジェンダーフリー」(もはやバッシングにしか使用されない言葉)や「男女共同参画」という用語の使用に端を発する、フェミニズムと保守的な反フェミニズムとの係争につき、当事者たちへの聞き取り調査等に基づくエスノグラフィーとしてまとめられている。
 フェミニストと自認する筆者たちが、反フェミニズム側からも丁寧に聞き取り調査を行っている点で大変貴重な研究となっている。この手法の調査研究としては、「新しい教科書」の普及にコミットした人たちに丹念に取材した小熊英二・上野陽子『<癒し>のナショナリズム―草の根保守運動の実証的研究(慶応義塾大学出版会、2003年)があったが、同書の研究から既に約10年。そして、1999年の男女共同参画社会基本法の施行を受けて、全国の自治体で男女共同参画推進条例が策定され、男女共同参画センターが建設され、多くの啓発事業が行われた。これらの動きに対応して、2002年から2005年にかけて、フェミニズム批判が盛り上がった。これらの動きに関わった、フェミニズム側が「バックラッシャー」と呼んだ人たちへの聞き取り調査は、今までなかったのではなかろうか。各地の「バックラッシャー」と呼ばれた人たちを繰り返し訪ね、時には「バーベキューパーティー」に招かれるなどしながら、その行動に至った背景や思いを聴き取るとともに、彼らと対峙した地域の市民やフェミニストにも会い、その経験や思いをも聴き取った、労作である。
 著者たちは指摘する。これまでフェミニストたちは、批判者がどのような人かを実証する作業が欠けていた。そのため批判されると「バックラッシュ」と大雑把に一括りにし、具体的な根拠が薄弱なままに、批判者を「普通の人々」「全国組織の組織的な運動」「新自由主義の影響を受けた弱者」etc.と決めつけてきた。時には中央に「司令塔」があり「潤沢な資金」によって動員がかけられていると考えることもあった。しかし、その大部分は分析者の想像に過ぎず、調査を経たものではなかった、と。
 どの章も興味深い。一つ取り上げると、「ジェンダーフリー」という言葉の導入を契機とした、フェミニズムと保守運動の係争の流れを概観した第一章。この章では、「男女共同参画社会の実現」に向けその効果が極めて不透明な啓発事業を始めた行政に持ち込まれた「ジェンダーフリー」という概念を、女性学・ジェンダー研究者たちが、未検証のままに拡散した経過を概観すると同時に、保守論壇が「ジェンダーフリー」概念を攻撃しつつ実態とかい離したフェミニズム像をつくりあげた経過をもたどる。これに対しさらに女性学・ジェンダー学者たちがこれまた実態とかい離した保守論者像をつくりあげ…と係争はかみ合わなかった。フェミニズムや男女共同参画への批判は、「ジェンダーフリーはフリーセックスと同じ、性差の完全な否定、「男女混合騎馬戦」「男女同室着替え」などを招く、「男らしさ」「女らしさ」の完全否定、ひな祭りなど日本の伝統文化の否定、マルクス主義や共産思想に基づいた革命戦略である、という具合だった(細かくみれば、保守論者の論調はそれぞれ内容に食い違いがあるが)。実際にフェミニズム批判を展開した記者や編集者たちは、「言われてみると、けっこう安易に『過激』という言葉を使っていますよね」と認める等、素直に、「読者を惹きつけなくては」「見出しは短くないと」、その面で「過激」は便利な言葉だった、という。ジェンダーフリー批判の言説は、かくして根拠が不確かで流言を含んでいるものが多かった。他方、フェミニスト側も、誤読に基づき「ジェンダーフリー」という言葉を採用し、さらに確認することなく孫引きを繰り返し拡散してしまった。「権威のある」研究者たち…批判的分析を旨とするはずの研究者たちの間ですら、「典型的な流言」のような事態が展開されるということに、驚きを禁じ得ない(確かに、私自身、「あの研究者がそういうなら、そういう言葉なのだろう」と思ってしまう…慎重にあらねば。)。そして、批判を受けると、まずはあまりにバカバカしい、お粗末と無視したが、その勢いに無視できなくなると、実証研究に基づくことなく、「バックラッシャー」像を決めつけ(たとえば、「主婦」「主婦のいる男性」と決めつけるが、実際には反フェミニズムの男性たちも妻と共働きというケースも多い)、著しく「自分たちとは異なる他者」であるとみなすことになった。それは、まさに、保守運動家たちが「フェミニスト」を過大視し実態とは異なる像を共有していたことと、鏡写しである。
 このような相互の無理解により、論点ごとの正面からの対話が果たされなくなってしまった。「男女共同参画社会の実現」を掲げた行政に関わるようになったフェミニズム側は、かつてのように「保守的政治動向に下から批判を加える」という立場ではなくなり、むしろ逆に「上から・中央からの啓発事業」を促進することとなったが、それが、特定の人間観倫理観を「押し付ける」・地方を中央の言いなりにしようとする、と捉えられることに無自覚のままであった。「市民運動」化する保守運動と「体制保守」化するフェミニズム。その構図に、フェミニストは鈍感ではなかったか。そして、勇ましい言葉で「バックラッシャー」を批判するものの、実証的な検証を経た上での提案、実践が欠けていたために、フェミニズム(そして保守運動も)は停滞した。
 ネットを警戒し、啓発事業に頼り、担い手が高齢化し実践的な批評性が薄れたフェミニズムの隘路。フェミニストを自認する著者たちだからこそ、情報弱者化したフェミニズムへの批判は手厳しい。この「失われた時代」から学べるものは多くあるだろうとまとめられているが、「実証的な分析と、実効的な活動と提言」を行うなどの本書のアイディアは、フェミニズムにとって、難題である。手厳しい批判に、往年のフェミニストたちの中には、「長年の多大な苦労も努力も知らない若い世代のくせに」と鼻白む思いをする方もいるかもしれない。いやしかし、著者たちは、むやみに非難しているのではなく、むしろ活性化してほしいとの願いからの叱咤をしているのだ。本書に、実践の活性化へのヒントを謙虚に見いだすべきだろう。(良)
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