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現代思想2015年2月号(43巻3号)『特集 反知性主義と向き合う』青土社 2015年

 「反知性主義」という言葉を目にするようになった。背景には、論理の飛躍や道徳的低劣さを恥じるどころか誇る言説、いや言説というにも値しない罵詈雑言がネットだけではなく大手メディアにも登場する状況や、特定秘密保護法の強行採決や閣議決定による集団的自衛権の行使容認にみられるように、知識と教養をベースにした熟議が疎んじられ、強硬な「決められる政治」の危うさを懸念せざるを得ない政治情勢がある。しかし、松本卓也「反知性主義の秘かな愉しみ」が指摘するように、彼らに「反知性主義」のレッテルを貼って首を振ることで満足してはいけない。本特集の諸論文は、「反知性主義」の様々な様相とその背景を分析する。
 松本論文は副題に「現代ラカン派の集団心理学U」とあるので、「ラカン?難解そう…」とスルーしようとしたものの、読みだしたら、「まさに!」と膝を打つことしきり。たとえば、「日本を取り戻す」。このシンプルな断言は、取り戻すべき状態が深い反省を要する陰惨なものであったことを否認し、取り戻すことが可能であり取り戻すべきでもあるような「理想状態」がかつて存在したことを幻想的に欲望し、その「理想状態」を希求する態度を人々に感染させるという、享楽的な性質を持つ。日本に限らず、世界中で享楽の動員の戦略をもっとも周到に行っているのは、極右勢力である。反知性主義者を批判するにしても、彼らの敵を「敵」として位置づけ、自らを正当化する際に用いる享楽の動員の戦略に一定の文法があることを知っておかなければならない。彼らは「象徴界のフラットな使用」とでも名付けられる方策を用いる。想像界において享楽の動員を行うその一方で、象徴界において括弧つきの「知性」を用いる。たとえば、安倍首相が「法の支配」を恣意的に利用する様をみよ〈中国の海洋進出の脅威にはしばしばこの言葉を用いるが、本来の法の支配ではなく、「法は法だ(だから守れ)」というトートロジーである。しかし一方で政治とカネの問題には「法」を適用しないetc。フラットな論理とそこに含まれる享楽の病理の存在。松本と同じく、ここに、「命令は命令である」とどんな命令にも官僚主義的に従うことから巨悪が展開されるというハンナ・アレントの「悪の凡庸さ」を想起しないではいられない。反知性主義者が享楽の動員のために用いるもうひとつの戦略として、敵対性を基盤にした同一化がある。たとえば、安倍首相が自分の政策に賛同しない多種多様な人々を一括して「左翼の人たち(=敵)」とレッテルを貼り、反対意見を聴こうというふりもしないだけでなく、「敵」である反対者に攻撃的な発言を繰り返すことにより、一定の支持を獲得していることなど。
 森政稔「反知性主義ポピュリズムと凋落する中道政治」は2013年安倍政権成立以降の2年、言論の自由と報道の自由が根本から脅かされかねない事態(言論の自由は知性と深い関係を持っているので、知性の危機でもある)において、知性が反知性に反論する方法は、熟議と論理的説得であるが、反知性の側はこうした方法を拒否する点にまさに特徴がある。それでも出来ることがないわけではない。運動に深入りしてはいないが次第に許容しかねない人やこれまでの常識が覆されそうで不安を持っている人に対しては、言論の環境を変えることで効果を有する。そのような問題意識から、森は、日本で生じている現象を、世界の他の地域や歴史の出来事と比較し、位置付けていく。日本における中道政権の成立とそれからの急転回、保守主義の復帰と反知性的ポピュリズムの跋扈という事態の展開は、マッカーシーイズムや右翼ポピュリズム運動が起こった1960年代や80年代のアメリカの早回しの観がある。しかし、決して右傾化が運命というわけではないともいう。
 木下ちがや「選挙独裁」とポピュリズムのおそれ」は、2014年12月の安倍首相の解散権の発動を人民・民主主義的ポピュリズム運動へのパラノイア的おそれからの潜在的危機台頭への先制予防戦略であったことを分析する。特定秘密保護法制反対運動や集団的自衛権容認への反対運動は安倍政権にとってその強権的態度とは裏腹に案外脅威であったらしい。本論文を読めば意外に安倍政権は妥協を重ねざるを得なかったことがわかる。読売新聞をして「熱狂なき圧勝」と銘打たざるを得なかった総選挙を受けて、安倍政権は民衆の欲望をつかみえないことの不安をますます高めている。沖縄県知事への面会すら頑なに拒絶する態度は、基地辺野古移設反対への報復のためだけではなく、民衆の欲望をつかみ、社会諸勢力の政治への接合を成し遂げた沖縄の民主主義的ポピュリズムへの恐怖・羨望・嫉妬心からではないのか。
 樋口直人「日本の移民政策と反知性主義」は、日本の移民統合政策の延長にみられるふたつの反知性主義のひとつの典型として、かつては開明的であった坂中英徳が拉致問題をきっかけとして「反日国家との対決」という妄想に陥り、朝鮮籍のままでいるならば重大な不利益がある、それがいやなら帰化せよという恫喝をするようになったことをあげる。もうひとつの典型としては、橋下大阪市長と在特会会長(当時)の会談がある。相互に罵り合う様子から「平行線」とまとめる新聞もあったが、橋下市長は特別永住資格を「特別扱い」と呼び、一般永住と統一すべきと述べ、在特会の反知性主義に付和雷同した。日本の移民政策を規定する論理と在特会には親和性があり、在特会はそれを口汚く再現しているだけに過ぎないという指摘に震撼とする。外国人参政権反対論が意図的に安全保障と絡めて主張されていくことも分析され、それを単に「反知性主義」と切り捨てるのではなく、さまざまな利害や思惑(たとえば、与那国にとって位置価を得る機会)との関連でみる必要があることを示唆する。
 その他、刺激的な論稿がまだまだ盛りだくさんである。が、読みながら一抹の空しさが残る。上野俊哉「反知性主義に抗うためのいくつかのアイディア」は、「何ですか、これ?へえ、現代思想?こんな雑誌あるんすか…見たことねえなあ」という30代半ばのサラリーマンのつぶやきで始まる。反知性主義を溶かして無化する知性は、たとえば生活をすこし不便にする身振りからはじまるのかもしれない、などと上野はつぶやく。何だかそっちのほうが楽しそうだなという感覚や美的なものから倫理的なものは事後的に生まれる、とも。精緻な論述の無力。いやしかし、論理的な分析とそれをベースにした洞察もなお必要であろう。楽しそうだなという感覚は、易々と享楽の戦略にはまってしまいそうである。
 北原みのり「私たちが、女が、完全に諦めてしまう前に」は、わいせつ物公然陳列罪で逮捕勾留された経験から、「長年かけて積み重ねられ完成した人の心を壊すためのシステムとして、歴史の重みすら感じさせるほどの、細部にまで行き届いた支配の方法」のありようを描き出す。読者も追体験し、ひりひりした痛みを感じる。その経験は、「初めて」のはずなのに、「とても懐かしい」という感覚すら抱いたということに、はっとする。私たちは「規律と怒声によって身体が支配される理不尽で気味の悪い感覚」を学校の中で刻みこまれてきた。権力を前に、個の痛みを感じなくなる。その前に、未来を描きたい。北原とともに切に願う。(良)
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