判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
上間陽子著『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』太田出版 2017年

 震え、涙を流した。嗚咽を抑えて、読み続けた。しかし、感動の涙で消費する、そんな安易な読み方をすすめたくはない。暴力を受ける、生活が困窮する、孤立する。そんな状態で、怒り嘆くのではなく、自分を否定する。傷ついていることに気づき、悲しみ、怒るには、自分は傷つけられるべきではない、こんなことがあってはならないと認識できなければならない。自分を大事に思う気持ちが壊されてしまっていたら、そんなことに気づくことすらできない。涙を流すこともない。第三者である読者として、少女たちとは距離があるところにいて、余裕があるから、涙を流せるのだ。しかし、できれば、涙を流すこともない彼女たちの視点になって、その現実を受け止める。そんな読み方をしたいと思う。
 本著は、「2012年夏から2016年夏までの、4年間の調査の記録」である。沖縄の米軍基地のフェンスに囲まれた、大きな繁華街のある街で大きくなった著者は、荒れた中学校で教師に何度も殴られるグループにいた。殴られることでかえって結束が強くなった。しかし、かっこいいと思っていたリーダー格の女の子たちが知らない男の車に乗せられて、セックスさせらたりさせられるのではないかとおびえたりしていたこと、先輩がシンナーを吸って「お母さん」と泣いていたこと、その他いろいろなことから、「ただかっこ悪い」と幻滅し、「うんざり」していく。「暴力で疲れ果てた女の子たちの顔を見るのはたくさん」と著者は地元を出ていった。そして、研究者になって、沖縄に戻り、風俗業界で仕事をする女性たちの調査をする。女性たちに、中学時代の友だちの面影を見いだす。調査という言葉からすると、社会科学的な無味乾燥な記述が続くようにも思えるかもしれない。しかし、著者は彼女たちを調査の客体とは見なしていない。深刻な相談に深く踏み込み、必要があるときは、手助けもする。DVをふるう恋人との話しあいに立ち合う、人口妊娠中絶のため病院に同行する、生活保護の担当部署に同行する、など、直接的な支援だけではなく、ただ、温かいコーヒーの入ったカップを握らせる、話を聴く、そういったことひとつひとつが、孤立した女の子たちにはどれだけ力になることだったろう。疎遠になり、いつしか連絡がつかなくなった中学時代の友だちのように、彼女たちを見失いたくない。そんな著者の気持ちが痛いほど伝わる。
 本著の中で、女性たちは、岸政彦さんによる帯のフレーズにある通り、「かわいそう」でも「たくましい」でもない、「それぞれの人生のなかの、わずかな、どうしようもない選択肢のなかから、必死で最善を選んでいる」ビビッドな存在だ。調査に協力した女性6人の生だけではなく、その女性たちの恋人や親、著者が「見失った」中学時代の友だち、「小学校の下校途中で見かけた電柱の前に座り込んでしまった女のひと」(「一緒にいた友だちから、「あれ、○○のお母さんだよ、お父さんがなぐるわけ。逃げているんだよ」ときく。うるさい小学校の集団が通り過ぎるまでその女のひとは動かない」)など、様々な人たちの生を垣間見る。
 家に大人がいない。そんな環境でも、中学時代、保健室を通り過ぎるとき、「おいで」と声をかけ、「朝ごはん、食べてから教室行け」って言ってくれる先生がいたりすると、反抗したり、遅刻しながらも、中学を卒業することができる。ますます余裕のなくなっている学校で、貧困や孤立した家庭の子どもに心を砕く余裕は教師集団にはないかもしれない。
 もっとも、話を聴いてくれる教師たちは一方で少女たちを殴りもした。親身になってくれる人が暴力をふるう。このことは、パートナーといびつな関係になっても解消できないことにつながっていく、と著者は指摘する。
 恋人に、夫に、暴力をふるわれる女性がなんと多いことか。「結婚後、変わりよったんですよ、一気に。自分の、自分のものになっているっていうのがあるから、一気に」。暴力は理不尽だ。何かを尋ねたりするだけで、「自分より7歳も年下なのに生意気だ」と拳で殴られる。私の依頼者たちから何度も聞いた、悲しい経験の数々と重なる。「警察に相談したりしました?/ううん。ひとりでひたすら泣いた。「ごめんなさい、ごめんなさい」みたいな」。そうなのだ。暴力をふるわれても、被害者自身、即、人権侵害だ、犯罪だ、と認識しはしない。警察に駆け込んだり、弁護士に相談に行ったりもしない。親密な関係で起こるDVは潜在化しやすい…とついすらすらまとめてしまう教科書的説明が、悲しくもリアルなものだ、と実感する。
 女性がDVを相談する先の1位は「家族や親戚」(31.9%)、次いで「友人・知人」だ(29.8%)。弁護士、カウンセラー、シェルターなど「民間の専門家や専門機関」はわずか2.4%にすぎない(4位。3位は警察で1.8%。いずれも内閣府「男女間における暴力に関する調査(平成26年度調査)」参照)。専門機関につながってほしい、と思っていたが、少女たちの日常からは私たち弁護士はあまりに遠い、とつくづく思う。本著の少女たちの経験から、すさまじい暴行を受けたとき相談できる家族や友人がいるかどうか、がより重要なのだ、とも悟る。深夜に駆けつけた友人は、自分も暴行されたかのように化粧をし、一緒に写真を撮る。その行為は、「いま」の出来事が、いずれ「過去」の出来事になることを予感させるものだった。少女は、幼い子どもが自分への夫の暴行に恐怖を覚えているのをみて、「この子のため、どんだけ嫌なことがあろうと、笑ってごまかせる」と頑張り、親権をとられるのではないかと怯え(弁護士としては、「主たる監護者の要素からして、全然世話をしない夫が親権を取るなんてそんなのは全然リアルでない脅しに過ぎない」と助言したくなるが、法律相談に行こうというアイディアは少女には思いつかない)、離婚を考えないようにしていた。しかし、動くことのなかった時間が動く。そう実感すれば、アクションを起こすことができるのだ。少女は、夫から「裁判でも何でも起こす」と言われても、離婚の意思を変えず、ついに離婚することができた。
 「恋人の暴行はDVの保護の対象にならない」と警察から追い返された少女がいるという。暴行はDVであろうとなかろうと刑法犯であり、警察の所管ではないか…。病院でも、「父親が不明」といえば呆れた様子を示す医師らがいるところと、「何かあったら病院に逃げておいで」と携帯電話の番号を書いた手紙をくれる看護師がいるところとでは、少女にとって生きていく希望はだいぶ違うだろう。後者の病院に暴行を受けた傷痕をメイクで隠しながら通っていた少女は、実際には駆け込むことも、電話をかけることもなかったが、ずっとその手紙を手帳にはさんでいた。そして、辛いことがあるとその手紙を読んでいっぱい泣いた。そして、DVをふるう恋人と別れ、障がいのある子どもを育てながら、キャバクラで仕事するようになる。さらに、DVをふるわれていたときに声をかけてくれた看護師にあこがれ、看護師専門学校を受験し、看護師になる。ちょっとした声かけ、気遣いで、自分も、他者も、大切な存在だと気づくきっかけになる、と目頭が熱くなる。
 だれも暴力を受けたり、差別されたりしてほしくない。そんな酷い仕打ちを受けたときの救済のツールを駆使して、被害をストップし、損害を回復する、そんなときにお役に立ちたい、と弁護士になったが、本著を読んでつくづく、役に立てる局面は限定されている、と思った。何の稼ぎもない元夫・元恋人から養育費も慰謝料も期待できないし、そもそも少女たちにそのような請求をする発想もないようだ。そういう法的解決ではなくて、まず、共にいること、耳を傾けること、それ自体がまず、少女たちに希望を与える、力になるのだ。
 登場するひとりひとりの少女たちの、特異な物語ではない。数々の暴力が生まれた背景には、その家族のひとりひとりも、困難な状況にあるのがわかる。ひとりひとり、自分がなでられ、いたわれ、祝福される存在だと実感することがなく、なぐられ、泣き叫んでもやめてもらえない状態で育ってきたのかもしれない。その家族が怠惰だ、どうしようもないと非難し突き放してはいけない。しかし、今では、教師も、役所も、余裕がない。子どもたちの生活に深く入り込んでいけない。じっくり聴けば、本著に登場する少女たちのように、様々な物語を話してくれるかもしれないのに。そこから、どのようにその現実を変えていけるか、共に考えていけるかもしれないのに。
 「必要とされる介入やその根拠となる理論的分析」は稿を改める、と後書きにある。しかし、処方箋まで著者に期待してただ待っているのではなく、本著を読んだ私たち自身、少女たちが自分を慈しみいたわり、生きていくことができるにはどうしたらいいか、考えていかねばという気になるはずだ。(良)
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK