判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
土佐弘之著『野生のデモクラシー 不正義に抗する政治について』青土社 2012年

 トランプが米大統領に就任。この事象を「99%の勝利だ」とネット上書かれてあるのを読んだ。2011年、「私たちは99%だ」「ウォール街を占拠せよ」と貧困・格差の是正を求める運動があった。体制に対する不満を持つ人々がその既存のシステムでは自分の意見が反映されていないとアンチ・エスタブリッシュメントを志向する。その噴出が、どうしてよりにもよって、トランプを大統領の座に導くとは。排外主義を鮮明に打ち出し、女性蔑視発言のみならず性的暴行の疑惑が持たれ、障がい者を嘲笑し、報道機関に敵意を示す、トランプに。99%の勝利どころか、99%の敗北ではないか。
 2011年の「ウォール街を選挙せよ」の前年にはアラブ革命もあった。その後の2012年に出された本著は、現状を不正義と認識した人々が街頭へ繰り出すことに、下からのレジーム・チェンジをもたらす原動力になる可能性を見いだす。しかし、楽観視はしておらず、レジーム・チェンジがデモクラシーの深化をもたらすかどうかは別問題であり、「バックラッシュの過程で解放の夢は蜃気楼のように消えていくこともあった」とも指摘する。今ここで大きなため息をつかざるを得ない。
 多数の示唆が得られたがそれらをまとめる力は私にはないので、断片的なままにメモしたい。
・世界銀行の世界ガバナンス指標のような、数値化した尺度に照らし合わせて統治行為の状況を把握するという行為には、権力作用が働いている。その政治的判断を数値化することで客観的・中立的なものにしたて、統治行為を脱政治化し、その正統性を高める。ネオリベラルな政治は、規制緩和し直接的指令を解除するが、統治目標・指標を間接的に示すかたちで遠隔統治をすることに特徴がある。19世紀的なレッセ・フェールへの後戻りではなく、監査文化を持った監査社会という特徴を持つ。(第一章 統治性としてのネオリベラリズムと例外状態)
・普遍主義の帝国に対する抵抗運動は、異なる尺度・価値判断を前面に出しながら同質的政治空間を攪乱し、ヘゲモニックな尺度を脱自然化する試みでもある。(第一章 統治性としてのネオリベラリズムと例外状態 67頁)
・ネオリベラリズムの主流化等を背景に、金融資本は自由な移動を追い求め、結果として平滑空間を創出していった。しかし、膨張する金融市場には、領域間差異は利潤につながる差異をもたらす一方、資源配分の著しい不均等が生じる。それに対して、弥縫策によるコントロールの試み以外に、グローバルな格差拡大を問題視し、グローバルな金融秩序そのものを変革しようと運動もある。グローバル・ジャスティス運動は、規制緩和の歪みを修整することだけではなく、「意思決定によって影響を受ける人々は、その意思決定に参画する権利がある」という原則をグローバルなレベルに持ち込み民主主義を深化させようとする試みである。(第三章 金融拡大の終焉期におけるグローバル・ジャスティス運動)。
・世界人権宣言の規範と現実との間の人権ギャップ。ギャップを縮減しようという上からの改革には、往々にして落とし穴がある。人道的干渉や人間の安全保障といった対処療法的な統治行為は、<救世主-絶対悪-犠牲者>という犠牲者を施しの対象と位置づけるもので、脱政治化されたグローバル・ガバナンスを補完するものに陥りがちである。分け前ある者の立ち場に立った温情統治では限界があり、分け前なき者の政治的主体化により、人権ギャップ縮減は内実のあるものとなる。(第四章 国際社会における人権ギャップ縮減の政治)
・「ボーダレス・ワールド」になっていくという仮説とは180度違い、グローバリゼーションの進行とともに、境界線は消失するのではなく、むしろ新たに引き直され、強化され、さらには偏在することになる。…このフレーズで始まる第五章は、トランプ新大統領が誕生した今、尚更興味深い。
・入国審査で、ある人種、エスニシティのカテゴリーに属する人々に対する取り調べをより厳しく行うということは、当然、レイシャル・プロファイリングに基づく法強制活動は国境にとどまらず、警察による不審人物の尋問など国内全体にも波及していくということになる。正式な市民権を持つ者も、外見上の理由からだけで不法入国者と見誤られ長時間にわたり尋問為れるなど、国内における人種・エスニシティによる差別が進み、社会の分断が深刻化することにつながる。(第五章 跛行的グローバリゼーションと境界における再/脱領域化の生政治)…まさに、今アメリカそして従来から日本で起こっていることではないか。
・不法入国者などに関する情報は、正確なデータよりも、不法入国者に関するマスメディアが形成するイメージや噂によって大きく影響される。ニュースに限らず、フィクションにおいても、犯罪と(不法)移民を結びつけるイメージが広がっているが、これはステレオタイプの反映であるとともに、「新しいレイシズム」をさらに強化する。「新しいレイシズム」は、異質な新参者に対する反発や恐怖だけでなく、新しい多文化状況に向き合うことができないままに過去の栄光・誇りにしがみつこうとする人々の「ポスト帝国期のメランコリー的症状」からも派生している。異質な他者への恐怖と自らの誇りの喪失感による新たなレイシズム、それに沿ったヒステリー的な反応の側面を有している。(第五章 跛行的グローバリゼーションと境界における再/脱領域化の生政治)…これまたまさに。トランプ大統領を誕生させたアメリカ、「日本を取り戻す」とのスローガンが踊り、日本礼賛や嫌韓反中本が売れレイシストが街宣活動をする日本の状況を言い当てている。ここでは触れられていないが、SNSなどによる増幅もいよいよ看過できない。
・リースされた基地を足がかりに非対称的同盟関係をはりめぐらすヘゲモニーとは、みかじめ料をとりたてる暴力団に似ている。当然、多くの者は一番強い組の配下に入る傾向を持つ(バンドワゴン戦略、イラク戦争でアメリカを支持し日米同盟堅持する日本など)。しかしあまりに一つの組が強くなりすぎると,みかじめ料を高くふっかけられるなど、組による支配が理不尽なのになる危険が生じる場合があり、一つの組が突出して強くなりすぎないように、他の有力な組が同盟を組むという勢力均衡の戦略もある。
 バンドワゴン路線は、親分の余力があれば支配は慈悲深いこともある。しかし、余力がなくなると、みかじめ料の取り立てが厳しいなど無慈悲なヘゲモニーに変わっていく。
 ヘゲモニーの余裕が失われている分、武力行使の閾値は下がり、従属国が巻き込まれる危険性も高まる。(第九章 非対称的同盟における見ヶ〆の政治)
 …日米同盟堅持の日本がどういうことになるか、恐ろしいではないか。

 とりわけ、ジェンダー主流化政策の波及/阻害を分析した「第六章 比較するまなざしと交差性」が興味深い。
・トランスナショナルなフェミニスト・ネットワークが大きな役割を果たして、ジェンダー主流化がグローバルに波及した。それは既存のジェンダー・レジームの変容をもたらす一方、ネオリベラリズムとも親近性がある。たとえば、世界銀行の行動計画「スマート経済学としてのジェンダー平等」は、女性のエンパワーメントを推進することで、経済成長を促すことができるという。平等は、目的ではなく、経済成長のための手段。
・ジェンダーイシューを専門とする官僚・政治家などいわゆるフェモクラートによるガバナンス・フェミニズムは、体制へのコミットメントによる変革と体制による取り込みという緊張関係に直面する。
・フェモクラートは官僚機構の一員であり、その限界を超えられない。たとえば、トラフィッキングについても、女性の権利を守るという観点より、「不法」移民対策として、ボーダーコントロールが一層強化されるというねじれが生じる。
・ジェンダー主流化政策の波及を阻害している要因として、イスラーム文化をあげる議論は強い。しかしそうした議論は、イスラーム文明圏を全て一括りにして同質的であるかのように論じたり、文化的決定論に陥っていたりと、問題がある。
・ジェンダー主流化における交差性の問題は、文化論的説明を強調すると、より深刻になる。対外的交差に絡むイスラーム観は国内におけるムスリム移民に対する態度に反映され、対内的交差の問題(国内のムスリム移民に対して厳しい対応をとる)につながっていく可能性がある。ヨーロッパにおけるヴエール問題はその典型である。
 フランスは、ヴェールは共和主義を支える原則の一つであるライシテに対する挑戦であるという認識から、他の欧州諸国よりも強い規制をとる傾向がある。ジェンダー主流化との関連では、ヴェールはジェンダー不平等を表象するものであり、それを容認することはムスリム社会における女性に対する差別を容認することになる、という解釈が、政権、さらには女性NGOに支持される。一部のフェミニストグループは、政府に取り込まれた形で、ムスリム移民に対する統制強化を推進した。ジェンダー・ポリティクスにおける交差性の問題が現れている。
 ヴェール規制の背景には、欧米社会内でのムスリムに対する偏見や嫌悪、ステレオタイプがある。自発的に着用する女性については、「家父長制的文化を内面化したもの」とフェミニストは斥ける。しかし、リベラリズムが追求する「個人の自律性」もヘゲモニックなパラダイムに依拠しており、自らの宗教的アイデンティティと深く結びついたヴェール着用を虚偽意識として一蹴するのは、オリエンタリズム的言説である。
 もっとも、ヴェールをポストコロニアリズム的支配、イスラモフォビア等への抵抗の手段とのみ解するのも、「抵抗のロマン主義」化の罠に陥っている。
 ヴェールをめぐる政治を、<ジェンダー平等を実現するリベラリズム/女性を抑圧する家父長制的伝統文化ないしは原理主義>といった単純な二項対立図式に陥らず、かつ、ポストコロニアリズムに対する抵抗と称揚もせず。民主主義を深化するには、普遍主義の名を借りて差異を抹殺するのではなく、合意が困難な中でも、差異を承認しあう、「共にあること」を目指す政治が必要である。

 読み進めるうちにどんどん今後の社会にペシミスティックになりそうになる。しかし、著者は随所で、より包摂的なデモクラシーを進める運動の可能性を諦めない。  たとえば、6章の引用部分にあるように、交差性の問題を直視しながらも、「共にあること」を目指す政治の指摘。さらには、以下のように。「境界なくしてはアイデンティティを維持することはできないし、境界の政治において排他性は不可避であり、そもそも境界によってどのような秩序を守るとするかという問題自体が決着をつけることができない政治的アポリアだから」、境界、秩序、アイデンティティの相互作用過程は、必ずしも進歩主義史観に沿った形で進んでいくとは限らない」。しかし、そうであっても、「より包摂的なデモクラシーを進める運動は、境界の多孔性を増す方向でのグローバリゼーションの進行に即応する形で、排他的政治というバックラッシュに抗する流れを作り続けている。」。(第五章 跛行的グローバリゼーションと境界における再/脱領域化の生政治)
 また、以下の点も。「社会運動論の観点からすれば、ヘゲモニー衰退期は、「政治的機会の構造」がより開かれていくチャンスの時期であり、秩序を変革できるか否かは、社会運動側が「見ヶ〆の政治」を不正義と捉える形でフレーミングを変えていきながら資源を動員できるか否か、ということにかかっている」。(第九章 非対称的同盟における見ヶ〆の政治)

 デモクラシーの深化どころか政治の権威主義的な傾向が強まっている現在の情勢の分析の視点を与えてくれ、かつ、細い希望の光も見いだせる書である。 (良)
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK