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熊谷晋一郎著『ひとりで苦しまないための『痛みの哲学』』青土社 2013年

 痛みに襲われると、自分の身体に関する予期を失い、そして、選択と結果をつなぐ予期が失われると、意思決定が困難になる。具体的には、次に右足を出していいかどうかすら、逡巡することになる。脳性まひという障害をもつ熊谷は、30歳を過ぎてから、それまで経験したことのない強い痛みを感じ、自分の身体はこう動かせばこのように応答するはずだ、という予期が打ち砕かれ、意思決定にはある程度安定した予期が必要不可欠であると悟る。
 熊谷が実感した、予期の喪失や不確実性の痛みは、障害者だけが経験するものではない。私たちが自明としている予期は、病気、老化、あるいは、天災、人災などを契機に破壊される。私たちは、破壊されて初めてその重要さに気づく。
 熊谷は、4人の論者(大澤真幸・上野千鶴子・鷲田清一・信田さよ子)と対談し、予期の喪失と不確実性からの回復がどのように得られるか、を模索していく。ときに拡散していくようでいて、熊谷は巧みに対談をリードする。個々のケースに埋没している実務家の私にとっては、4つの対談から浮かび上がるひとつの筋ないし「哲学」より、細々したエピソードが面白い。印象に残ったエピソードの断片を記しておきたい。
・慢性疼痛の研究の中では二つの種類のサポートの仕方があるといわれている。その一つ「痛み随伴性サポート」は、痛みを感じる相手に共感して痛みを取り除こうとするもの。相手が痛い痛いと言うたびに応答義務を果たすようなかたちのものである。他方で、痛みはさておき、それ以外の部分、たとえば社会復帰のための手立てを講じるとか、介助するとか、痛みとは関係のないところでサポートする「社会的サポート」。痛み随伴性サポートは痛みをかえって悪化させ、社会的サポートはよくなる場合が多い。この現象を熊谷に紹介されるや、大澤が「共感の不可能性こそが共感だ」といった説明を施すが、抽象化一般化も大切とはいえ、「摂食障害自体・引きこもり自体に家族も本人も集中しているよりも、それはそれとして、アルバイトに行き出したりしているうちに変わっていく」ということ自体が興味深い。熊谷がある人から聴いたという「優しさが痛い」「笑顔が痛い」という言葉に、疼くものがある。痛いといったら手当する、その予測可能性が、かえって悪循環を巡らせてしまうことがある。かといって、つっけんどんにしたらいいということではないのだが。
・大きな痛みを感じたときの学習や記憶は、一撃で一生分持つような記憶になるのかもしれない。他方、良い記憶は何回記憶しても定着しない。物語も、ハッピーエンドに終わるにしても、いったんは悲劇的な目にあう。
・臨床心理士の信田さよ子との対談が私にとっては一番面白い。信田のカウンセリングは、偶然性を極力排除する。アルコール問題等を抱えた子どもをもつ母親の会で、信田は、母親の努力のいかんにかかわらず、良い変化が生じると、「良い変化が起きた理由を三つ考えてください」として、母親が無理やり考えた「理由」を専門知に回収する。「ここで勉強したから」という理由が加えられるとそれを母親も回収する。カウンセリングに来る人は専門知識を持っていない。その人たちに、ブイを投げてあげるのだ、「とりあえずこれにつかまってください」というものを提示しなければならない。具体的な素材を提供する。具体性が大切。「宮崎駿の映画を観て帰りましょう」「ユニクロに行きましょう」、といった。なんだそれは、と思いつつ、なるほどとも思う。帰ったら冷蔵庫を開けて麦茶を飲んで子どもに「ただいま」と言おう、など。ただいま、というときに何を考えていても構わない。素材を提供するが、真ん中は自由に、ということだと。具体的なことと、大きく柔らかい知的フレームを提供する。
 弁護士は事細かに指図はしない。あくまで本人の意思を尊重しつつ、法的枠組みにしたがって、事件を処理していく。カウンセラーは、揺れ動く本人の意思をそれはそれとして、ものすごく具体的なところで枠をはめて、導いていく。仕事の質が全く違うが、カウンセラーは、痛みを抱え揺れ動く人が必要としている何かをしっかり受け止めようとしていることがよくわかり、頭が下がる。
・熊谷とその母との経験も胸をつかれる。特に、熊谷が過食のときに、母が何も注意せずに洗面器を用意して、食べるだけ食べさせた、ということに、凄みを感じる。そのうちに、熊谷は過食が終わったという。成長を見守るというのは、こういう姿勢もあるのか。

 余韻が残る一冊だ。(良)
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