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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
川上弘美『神様2011』講談社 2011年

 川上弘美の紡ぎ出す物語は大好きだ。寓話のようでいて、淡々としたリアルな空気も漂っている。1993年の『神様』もそのひとつ。
 三つ隣に引っ越してきたくまに誘われて、川原を歩く。今どき珍しく、引っ越しの際には蕎麦をふるまうなど、昔気質のくまは、子どもに毛を引っ張られたり、蹴りつけられたりしても、「いやはや、小さい人は邪気がないですなあ」とおだやかである。川の中の魚を二人でじっと見つめる。突然ざぶざぶ入って魚をつかみ上げるのが、さすがくまだ。干物にして、「わたし」にくれる。くまとの散歩からの帰り、「わたし」は日記をつける。
 以上の筋(というほどの筋ではないが)は、川上が2011年3月末に書いた『神様2011』も同じだ。しかし、光景は違う。くまも、「わたし」のふるまいも違う。川原までの道では、防護服に防塵マスク、腰まである長靴に身をかため、土壌の除作業をしている人たちがいる。水田だった地帯は掘り起こされている。くまも「わたし」も被曝許容量の上限を考えながら行動する。蹴りつける子どもは登場しない。代わりに、「くまは、ストロンチウムにも、プルトニウムにも強いんだってな」とくまをうらやむ防護服の男たちが出て来る。くまは、再び、「邪気はないんでしょうなあ」とつぶやく。川の中の魚をつかまえ、干物にするのは同じだが、魚のえさになる川底の苔にはセシウムがたまりやすいといって、「食べないにしても」と言いながら「わたし」にくれる点がちがう。くまにお願いされて、お別れの挨拶に抱擁をかわすのは同じだが、「わたし」は心の中でくまの体表の放射線量は高いだろうと考えている。帰宅後の日記には、「いつものように」総被曝線量を計算する。
 川上は、静かな怒り(最終的には知らないでいた自分に向けられる怒り)を感じながらも、「原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段に構えた姿勢」ではなく、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつということに驚きながら、「神様2011」を書いた、という。
 2011年の福島第一原発事故直後であれば、川上の静かな怒りと、驚きをこの社会の多くの人々が共有したはずである。それらの人々にとって、書き直されたこの物語は、寓話というよりも、リアリティをもったものとして迫ったはずである。あれから3年経った2014年の現在、福島第一原発事故は未だ収束していないにもかかわらず、やれ東京オリンピックだアベノミクスだなどと私には強引としか思われない浮かれぶりのこの社会においては、おそらくこの物語を読み返す人は多くはないだろう。読み返した人にとっても、「そういえばそういう怒りと驚きを感じたこともあったっけ」と、切迫したリアリティを感じないのではないか。コントロールできていない状況をコントロール下にあるという首相を多くの人が支持し、放射能汚染を忘れたことにして続いているこの日常のほうが、寓話的と思えてならない。(良)
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