判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
李信恵著『#鶴橋安寧 アンチ・ヘイト・クロニクル』影書房 2015年

 読んでいる最中、涙が次から次へとあふれて止まらなくなった。思い起こすだけでも涙があふれる。
 私は一度差別街宣に遭遇したことがある。足がすくんで、身体が硬くなった。「朝鮮人は××!」との罵りに、私自身の中の大切なところが損なわれてしまうような、冷たいもので握りつぶされてしまうような思いがした。この社会ではマジョリティの日本人である私をも尊厳を傷つけられる恐怖を覚えさせた激しい差別街宣に、当の差別の対象である在日朝鮮人である著者が、何度も足を運び、名指しで脅迫され罵られながらもその参加者たちに近づき、取材を試みたということに、感嘆という言葉では足りないほどの思いがする。
 唾をはかれた胸を洗っているうちに血が出たとか、デモの後飲み、吐くといった記述を読むと、家族が「もう行かなければいいのに」というのも、もっともだと思う。胸をかきむしった痛みや、酩酊し、吐きながらも、吐き出すことができない苦しみを想像し、辛くなる。ヘイトスピーチは「在日にとって猛毒」、「心を殺された」、「いつかは実際に殺されかねないと思うときもある」、そう書きながらも、李さんは、ヘイトデモの取材を続ける。李さんは、ネット上押し寄せてくるヘイトスピーチにもいちいちコメントする。つい省エネでスルーしてしまう私はその点にも驚嘆する。
 なぜ?在特会らを育てたのは、自分が傍観していたからではないか、と李さんは書く。「自分がターゲットになるはずもないと高をくくっていたその時に何も行動を起こさなかったこと、行動の起こし方を知らなかった自分が恥ずかしい。」その後悔を取り返すしかない。「ネットでネット右翼にいちいち返信することは、悪い子を叱る大人の役割のようなもの。ちゃんと、差別はだめだと言わなきゃ。格好いい大人になるには、たぶんまだ遅くない」。このくだりには、うたれた(ほかの多くの記述にもだが)。そう。傍観し、「省エネ」して、差別を蔓延させている私は、格好悪い。李さんだけではなく、私、そしてこの社会の皆が、後悔しないように、差別にNOと言うべきだ。
 ヘイトスピーチを放つひとたちに対する李さんのまなざしは、驚くほどやさしい。排外デモ集団の中で一時期スターのように脚光を浴びたS少年が、恐喝などの容疑で逮捕され、少年院に送られたときいたとき、李さんは、「24歳で会社経営」と名乗っていた少年が18歳だったことを知り、助けてくれる仲間はいるのだろうか、少年の周りにはちゃんとした大人がいなかったのだろうか、すれ違う日が来たら、「おなか減ってない?」ときくと書く。また別の少女のこと。猫耳をつけ中学生の少女は、「鶴橋に住む、在日クソチョンコのみなさん、そして今ここにいる日本人のみなさん、こんにちは」「ほんま、皆さんが憎くて憎くてたまらないです。もう殺してあげたい!」「いつまでも調子にのっとったら、南京大虐殺ではなく、鶴橋大虐殺を起こしますよ!」と得意げに、楽しげに叫んだ。言葉を読むだけでもショックだったが、周りの大人たちが「そうだ!」と煽る中、少女が得意げに楽しげに絶叫している動画に、震撼とした。その場にいた李さんが「身体も心も冷えた1日」だったというが、私も、その動画を観たとき心身が冷え、涙があふれた。しかし、李さんは、その少女のことすら、自分の息子と同じ年齢のあの少女はどうしているんだろう、と心配する。そして、「死ね、殺す」というネット右翼に、逆に「生きろ」と言ってやる、「本当はそういう言葉を聞きたいんじゃないの?」と。ああ…。どんなに寛容なのだろう。こうありたい。でも、あまりに自分を苦しめないで…とも願う。
 涙が出て止まらなくなるのは、在特会の「お散歩」を阻止したしばき隊や「プラカ隊」(「仲良くしようせ」「差別主義者は恥を知れ」などと書いたプラカードを持って並ぶ)などの意思表示だ。おそれ、見て見ぬふりをするのではなく、きちんと対峙し、善意を示すことはなんと素敵なのだろう。李さんは、ライターとしてはレイシストの前に立つことができるが、そうでなければ、やはり怖い。差別を受けるために立っている被害者に過ぎない、という(ビラ配りはなさる)。差別を受けるマイノリティ当事者が加害者の前に立つことは厳しい。そうでない、マジョリティのほうが、カウンターに参加しなければならないと自覚する。
 ヘイトスピーチは現行法で対処できる、という見解があるが、李さんらの経験では、現行法では全く対処できていないことがわかる。「殺せ、殺せ、李信恵」とのコールの場にずっといた警察官に、「現行犯で逮捕できないのか」と頼んでも、「自分はそのコールを聴いていない。被害があったなら証拠をもってこの近くの所轄へ」で済ませてしまう。その他、その場にいる警察のやる気のなさがわかる出来事がいくつもある。このままでは、凄まじい差別が野放しになってしまう。ヘイトスピーチに関する法規制を考えねばいけないときにある。
 京都朝鮮学校襲撃事件の裁判傍聴記の部分には、原告側証人たちの様々な語りに涙する。損害賠償が認められたのは当然だが、裁判所はまだ信頼できるとほっとする。しかし、子どもたちに与えた影響は深刻であるし、襲撃された朝鮮学校がグラウンドとして利用していた公園に市は小さな「丘」をつくり従来通り利用することは出来なくなってしまった。行政はどちらを後押ししたのか、明らかであり、悲しい結末である。
 次は自分だ、と李さんは、名誉棄損による損害賠償訴訟を提起する。「この日本で、在日朝鮮人として、女性に生まれてよかった」(李さんは在日であることのほか、女性であることからさらに攻撃される)、いつか心の底からそう思いたい。誰もが、生まれて来てよかった、と言って笑い合える社会を作りたい。そこに、差別はいらない。本当にそうだ。そのためのアクションのひとつとしての訴訟なのだ。
 事件を担当する弁護士の描写は、とてもかっこよく、感謝と信頼が滲み出ている。素敵だ。こうありたい、こうあらねば、と心に刻む。
 終わりに、祖父母や父母のこと、幼かったころの追憶がおさめられている。ひとりひとり、個性のある、大切なひとたちが浮かびあがってくる。「差別主義者は、在日と本当の意味で出会っていないのではないか」と書く李さんは、様々な在日の人たちを描き出すことで、「本当の意味で出会ってほしい」と願っているようだ。
 私たちが望むのは、少女が絶叫した「鶴橋大虐殺」では絶対なく、「鶴橋安寧」。あとがきと帯にある言葉。「ヘイトスピーチが街中で叫ばれているこの時代をいつの日か笑い話にするために。今あなたが出来ることは何ですか?みんなしっかりしーや!一緒にがんばろ。」こんなに苦しい経験をした李さんがまだ諦めない、むしろ私たちに呼びかけてくれる。そうだ、しっかりしよう。がんばろう。きっと差別街宣をまとめるのは苛酷な追体験だったはずだ。それでも、本にまとめてくださって、有難う。どうか多くの人に読まれますように。(良)
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK