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高橋哲哉・岡野八代著『憲法のポリティカ 哲学者と政治学者の対話』白澤社 2015年

 戦後70年、憲法のもと、日本に平和と民主主義が根ざした…。と明言できたらどんなにいいことだろう。根づかせようというよりもむしろ、憲法を廃棄しようという動きが強まっている。「安倍首相、そして現在かれを支持する人びとは、憲法とは、国家という巨大な暴力装置と強制力を備えたシステムのなかに生きざるを得ない、無力で小さな個人の生がよりよく生きられるために、人類が長い年月をかけてようやく手に入れた英知であるという事実に見向きもしません。」(はじめに)という岡野とともに、焦燥感に駆られる。河野談話(1993年)を機に日本帝国主義の植民地主義や加害責任について関心が高まっていた約20年前、岡野は高橋と出会ったという。20年を経て、<なぜ、いまわたしはこんな時代に生きているのか>。ひとりではヒントすら見いだせない問いを高橋とともに考えるため再会し対話したことで本著は生み出された。
 引用したいところはいくつもある(若干にとどめたつもりだが、膨大)。
 「安倍的なもの」に対して断じて動ずることはできないという点で二人は一致する。「安倍的なもの」とは、「慰安婦」問題を含む戦争責任や戦後責任をとらない態度、戦争を記憶しようという努力を「自虐史観」と貶める態度など。日本が右肩上がりの時代の教育をほぼ同様に受けてきた世代として、岡野は、技術やサービスなどさまざまな面で日本のステータスにむしろ自信を持っていたという。他国から見下されているなどと発信しているほうが「よほど自虐的」。まさにそうだ。
 自民党の改憲案を読むと、心底怖くなる。立憲主義の根本をあからさまに否定しようとしている。主語が「国民は」から「国は」になっていることが象徴的だ。自民党の改憲案がいかに問題であるかを二人は次々と指摘してくれる。自民党改憲案は、国を縛るのではなく、国民がどうあるべきかを決める、国民を選ぶ。普遍の原理を否定し、「長い歴史と固有の文化」、明らかに「万世一系」の「天皇を戴く国家」、天皇制を志向している。国民主権という言葉は残されているものの、「天皇を戴く国家」という前提のもとであるというのはどういうことか。
 人権の意味合いもガラリと変わってしまう。生まれながらにして持つ人権ではなく、国から認めてもらう権利へ。となると、「公の秩序」の解釈次第で、易々と制約されてしまう。自民党改憲案では「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変えられていることにも、驚かされる。高橋が指摘するように、「公共の福祉」は、主権者間の人権主張の調整のための原理だが、「公益及び公の秩序」では、国家秩序、「天皇を戴く国」から、「上から下へ」の制約としか考えられない。
 選択的夫婦別姓を求める私が重視する条文のひとつである24条も自民党案は改めようとしている。この条文は異性愛中心主義として、リベラルな立場の一部からも評判が悪い。しかし、岡野が指摘するように、この条文の趣旨は、同性婚を排除することではなく、女性と男性との平等、両性の合意のみに基づく(家に押し付けられない)婚姻ということにあった。DVがまだある現在でも依然として重要な条文である。「両性の合意」の両性は「女性女性」「男性男性」の2人という読み方も出来るという岡野の指摘は心強い。
 自民党案は、24条に「家族は、互いに助け合わなければならない」と義務付ける。貧困で疲弊していてそれでも支え合う家族にさらに鞭打つのか、社会保障は打ち切りで自分たちで助け合ってくださいと言っているようではないか、と岡野はいう。確かに「自己責任論」のもと生活保護受給者バッシングを積極的にやってきた議員もいる党の案のねらいはそこにもありそうである。
 立憲主義、すなわち、個人の尊厳、個人の基本的人権を尊重するためにこそ国が存在していると宣言する憲法のもと、軍隊は存続可能なのか。むしろ9条こそ立憲主義にかなう。軍隊を持っている他の国々の立憲主義はいびつなのだ、という岡野の指摘は斬新に思えるが、確かに考えてみれば、戦争により個人の生命や自由や幸福追求権は侵害されることになるから、戦争を放棄するのは当然ではないか。
 もっとも、岡野と高橋も、日本の現実が憲法の掲げる理想と一致していたことを認めるものではない。憲法9条のもとでも、沖縄は平和ではなかった。世論調査では日米安保条約を支持する割合が圧倒的である。沖縄以外の国民は、平等ではない基地の負担を強いられている沖縄に対する差別を黙認してきた。憲法に合わせるように政治の変更を求めていかなければならない、と両者は指摘する。現在の「辺野古問題」は沖縄だけの問題では決してない。
 岡野と高橋が一致しないところもある。まず、人道的介入としての軍事力の行使について。高橋は、ナチスドイツを例に挙げ、残酷な不正義に直面して国際社会は軍事力を行使しなくてよいのか、日本は座視していいのか、と問題提起する。岡野は、どんなときでも軍事力を行使しない方がいいと意見する。コソボの空爆は、セルビア人による強姦を止めるために、被害者を助けたのか。ナチスドイツのもとペーパー上であれ他国の国籍を持っていたユダヤ人が強制移送の対象になり殺害される可能性があると知っていながら、各国は受け入れず座して放置した。武力で抑えるより違うやり方で被害を抑える通路はあったはずであると指摘する。
 岡野は非武装で紛争地域に入って解決していく活動などを紹介し、破たんした国を抑えるために最後の砦として武力を担保しなければいけないという考えが戦争を引き起こしていると指摘する。しかし、高橋は、人道的介入の恣意性(イスラエルの軍事行動は放任など)を認識しながらも、護憲派の「戦争反対」という主張には思考停止がある、と感じると言ってしまう。岡野は思考停止しておらず具体例を挙げているのに、ちょっと残念である(「護憲派」のことを言っていて、岡野のことを言っているのではないとはいえ)。
 立憲主義を掲げる憲法の改悪に警戒をもつ両者であるが、「国民主権」という概念に日本列島に住み、税金を納めている外国人を排除する、反動的な傾向につながりかねない点などに懸念は抱いている。「わたしたち」の憲法というと、「わたしたち」ではない人を排除してしまうのではないか。「わたしたち」を自明なものとしてではなくとらえたい。ヘイトスピーチへの法的介入は必要である、韓国人から追い出すのが自分の幸福だなどという幸福追求権は保障できない、という高橋に対して、岡野は、アメリカの研究者ジェレミー・ウォルドロンが、イスラムの人たちへのヘイトスピーチがあふれたとき、これは一対一の危害ではなく、市民社会の秩序そのものに対する危害だから罪としては個別の罪よりもっと重い、社会のそのタイプに属する人全員に対する脅迫であり、自分がいつどこで対象になるかわからない恐怖感まで与えてしまうので、規制すべきだという議論をしていると紹介する。まさに私も考えていたことだ。特定の人なら脅迫だけれども、ヘイトなら違うっておかしくはないか?こんなに人に恐怖心を与えているのに、と。とても心強い議論であり、勉強しなくては。
 岡野も高橋も指摘する通り、解釈改憲が許されるなら、憲法に政府が縛られないことになる。立憲主義が瓦解してしまう。苛酷な時代にいることを悟るのは辛い。しかし、私たちは、そんな危機の時代、私たちの人権と自由が危機にさらされている時代にいることを認識し、行動するために、本著を読まねばならない。(良)
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