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早尾貴紀著『国ってなんだろう?あなたと考えたい「私と国」の関係』平凡社 2016年

 「裸の王様を見て、最初に「おかしい」と言ったのは大人ではありませんでした。中学生のみなさんには、ふと感じる素朴な疑問を大切にしてほしい」。プロローグでぐっと痛みを感じる。大人になって久しい私は、裸の王様を「おかしい」と言えるだろうか。まだ言える可能性のある中学生向けの本かあ…。とだじろいだものの、いやなに大人だってまだ可能性がある、と読み進める。読了。大人も中学生も、心して読むべき本だ。
 「全国模試や偏差値も「国民国家」ゆえに存在している」(7頁)など、中学生のみならずとりあえず「勉強しなさい」と子どもに言っている保護者世代(私…(-_-;))にもグッと来るフレーズだ。このような一見身近なところから、ホロコースト、パレスチナ、植民地主義、原発事故、領土問題、イスラーム国等様々な問題を、国民国家という切り口で浮かび上がらせる。
 かつて、人を「奴隷」として売買するなんてことがなぜできたのだろう?ひどい話だが昔の話、と、かつて世界史を丸暗記していただけの私には、「植民地から強引に人や資源を奪うことを正当化したのが人種主義」、「自分たちより劣った人種だから自分たちと同じように接する必要はなく、優秀な自分たちは彼らを家畜のように扱ってもいいし、その土地を勝手に支配してもいい」という考えなしには植民地主義はありえなかった、そして、人種主義=人種差別が大航海時代といった過去の遺物ではなく、今なお残っているという記述に、はっとさせられる。
 植民地主義で富を得て発展したという輝かしい歴史の裏面にあった人種主義。フランス革命、人権宣言の裏面にもユダヤ人排斥論という人種主義があった。ナチスのユダヤ人排斥は突如現れたものではなく、国民国家化や科学実証主義の興隆があいまって、19世紀には、ユダヤ教徒が「科学的に裏付けられたユダヤ人種」と認識されるようになり、植民地支配と同様、「劣等人種だから差別して当然」という考えが広まり、「国民ではない、だから権利を与えなくていい」とされていく。
 ナチスは、ユダヤ人を「非国民化」し、居住や職業の自由を法的に剥奪し、さらには「国の事業」として収容所で虐殺していった。民族主義的な国民国家はその構成員である「国民」を創出するとともに排除、抹殺の究極ともいうべきホロコーストをもたらした。
 その同じ過程によって生み出された国がイスラエルであるという皮肉。ヨーロッパに住むユダヤ人がヨーロッパ以外の場所でユダヤ人の国を作る、というシオニズムの考え方は、ヨーロッパから出て行け、というユダヤ人差別と通底する一方、差別を解消して、今住んでいるヨーロッパで共に生きていくという考え方には逆行する。シオニストの指導者は、「われわれの敵である反ユダヤ主義は、われわれのもっとも信頼のおける友になり、反ユダヤ主義はわれわれの同盟者となる」という言葉まで残しているという。
 とすれば、ひとつの民族がひとつの国家を占めるべきという民族主義的国家観、ヨーロッパの優越意識、植民地主義、ユダヤ人の離散と帰還という神話があいまって、アラブ人を殺害・追放という民族浄化を引き起こしたことも、(納得はいかないが)理解ができる。なお、ユダヤ人の国という国民国家のための政策が、「アラブ・パレスチナ人の人口比率を下げる」という強迫的理念のもと、ロシアやエチオピアからの「ユダヤ系とおぼしき人々」を移民として入れることになり、皮肉にも「国民の多様化」をもたらしている。
 日本も、国民国家の建設にあたり「本来的な国民」を仮定し「そうでない者」を排除してきた歴史のただなかにある。戊辰戦争で「官軍」と奥羽越同盟から途中で寝返った秋田藩の死者を祀りながら、会津藩・仙台藩の死者を祀らない靖国神社のありようは、まさにその例だ。日本の植民地支配としてすぐに思い浮かぶのは台湾と朝鮮半島。しかし、現在でも日本の国土面積の1%未満の沖縄に74%の米軍基地が集中するなど、痛みを伴う部分を沖縄に押し付けてきたのは、武力を背景に統合した琉球処分と無関係ではない。歴史は敗戦で分断しているのではなく、ずっと連続していると考えたほうがみえてくるものがある。
 国の思惑で動くのは、国境だけではなく、「日本人」の範囲も自明ではない。国民の範囲も改定可能な法律、すなわち政治的決定によって変わる。旧植民地の人々は、軍事的に植民地にされ「日本人」にされたが、敗戦後は生活基盤が既に内地にあった人でも一方的に「日本人ではない」とされた。そして、敗戦後の日本では、拡大主義から一転して血統主義的な「純日本人」により構成される「本来の日本」という考え方がもてはやされるようになる。単一民族国家などありえないことは学問的には常識であるにもかかわらず、この民族主義的な考え方は根強く、政策にも反映される。たとえば、日系人の日本での就労や定住をしやすくした1990年改正入管法は、血統主義的な日本人観に基づいているが、戸籍だけを根拠にする「日系人」認定は事実として血統主義を裏切る。血統へのこだわりが実際には多民族化を促すという皮肉は、イスラエルの上記政策と全く同じである。
 第3章の「東アジアと日本の関係って?」には特に力が入っている。「どうして東アジアとの歴史を整理するの?」「日本という国と、個人としての自分を考えるうえで、密接に関わってきた東アジアのことを抜きにしては考えられないからです」という章の冒頭からして、身を引き締める。「自虐史観」との罵倒が響くご時勢だからこそ若い人に伝えたいという意気込みを感じる。そして、在日朝鮮人の人々が一方的に国籍をはく奪され長い間年金や健康保険に加入できなかったこと、「戦争難民」というべきであったこと、所得税等を課税される一方、選挙権など「国民の権利」の一部が認められないことを説明した後、「やっぱり責められているような気がするし、私に言われても困るんだけど」という問いをたて、さらに説明を重ねる。なかなか通じない人々にこそ向き合わねばという思いなのだろう。
 高校無償化法は、公立学校はもとより私立学校や外国人学校、インターナショナルスクールもすべて無償化の対象とするが、唯一、朝鮮学校だけ排除する。「でも、北朝鮮はミサイルを発射したり、やっぱり怖いと思う。」とのつぶやきに、日本もミサイル発射している(報道されないだけ)、北朝鮮がミサイル実験しているからといって、同じように日本で育ち日本で学ぶ子どもたちを無償化から外して差別することが当然ということになるのか、と問いかける。
 そもそも個人と国家の関係をどう考えるべきか。「国のために働くのはいいことだし、国のために犠牲になるのは名誉なこと」。国民国家にはそこに住む人がそのように思ってしまう国のあり方である。戦争など国の論理が強いときは、国の論理に従って、後から考えれば非人道的なことまでしてしまうことがある。「平等な国民」で構成されることもフィクションである。原発は中央と周辺の格差を前提とし、その差を拡大させるものであった。また、住民の被ばくについて国が気にしないのは、経済や核政策を優先し、個々の人々(国民を含む)を守る気がしていないから当然なのだ。原発事故は、国が個人よりも政策を優先することをあらわにしたといえる。
 国民もまた守られるものではないとはいえ、国民に「自分たちこそが国の主人公で、彼らは本来的な国民ではない」という幻想を抱かせる国民国家。その排除は暴力をもたらす。フランス等欧州諸国でのアラブ系の人々に対する差別、暴動、テロ等も、排除と暴力の様相として説明されていく。
 絶望するしかないような説明が続いた終章の第6章「ディアスポラってなに?」では、もともとは「ユダヤ人の離散」を意味する「ディアスポラ」が希望を持って語られる。国民ではない、国民とは認められない他者を少数者として排除したり追放したり虐殺したりすることを正当化してきた国民国家の歴史。ディアスポラは、そうではないあり方を示す。国のために命を捧げて闘うことが美徳とされるような国民国家のあり方に対して、ディアスポラにおいては、闘って死ぬよりも逃げて生き延びることに価値を見い出す。土地を支配しなくても、他の人々を支配しなくても、独自の文化を保持し、生きていくことは可能だ、という、今のイスラエルとは正反対のあり方。国民国家というあり方が崩れかけている今、ディアスポラに学ぶことは大きい。
 日本の原発事故後の状況は、「原発震災ディアスポラ」といえる、と原発を機に避難せざるを得なかった著者はいう。避難をめぐって分断も起きた。しかし、全国各地で避難者同士でネットワークが出き、課題を共有し、解決も探っている。
 そして、「日本人」も単一で固定的なものではなく、人為的なものであるという視点をもち、「異質なもの」を排除するべきではない。ディアスポラが示すように、移住や交流は文化的にも相互に豊かさをもたらすものであり、多様性を肯定していくべきだ、としめくくられる。
 おりしも、「政府が、北朝鮮の核実験やミサイル発射を受けた措置として、朝鮮学校に補助金を交付している自治体に対し、自粛を求める方針を固めた」ことが報じられた(2016年3月26日読売新聞8時52分配信)。人種差別撤廃委員会から日本政府の第7回・第8回・第9回定期報告に関する最終見解(2014年)で、朝鮮学校を高校無償化から除外すること、朝鮮学校に対し地方自治体によって割り当てられた補助金の停止・継続的な縮小を含む、在日朝鮮人の子どもの教育を受ける権利を妨げる法規定及び政府の行動について懸念を表明されたにもかかわらず、反省するどころかなお強硬になっていく政府の姿勢に唖然とする。しかし、絶望せず、多様な豊かな社会を目指していきたい。(良)
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