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エリック・ブライシュ著 明戸隆浩・池田和弘・河村賢・小宮友根・鶴見太郎・山本武秀訳『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』明石書店 2014年

 私たちは、自由を愛し、レイシズムを憎む。しかし、これらの価値が衝突したとき、どのようにバランスを取ればいいのか。本書は、抽象的な原理を構築して現実世界のジレンマに適用するよりも、自由民主主義諸国が、衝突する二つの価値の間でどのようにバランスを取ってきたのかを検討する方が有益であるとして、欧米諸国の、ヘイトスピーチ、さらには結社の自由に関する法律やその執行、司法判断等を比較分析していく。
 諸国の取り組みは、それぞれの歴史的経緯により異なる。しかし、戦前は人種差別禁止規定が相対的に見られず、ナチズムの台頭を許したが、1960年代から70年代にかけて人種に基づく扇動等を規制する法律に対して注意が向き始め、90年代初めまでにほとんどのヨーロッパ諸国は人種差別表現に対して実効性のある制限を設けるに至ったことなど、共通の流れはある。これらの法律は、レイシズムの抑制を目指す際の重要な象徴であると同時に、執行もされている。執行の程度は諸国によって異なるが、自由を絶対視する人々が恐れたように「すべり坂」を転がり落ちている国はなく、かなり抑制的である。論争的な批判に適用されることはほとんどなく、不起訴も非常に多く、求刑されるのも少額の罰金や執行猶予付きの禁固がほとんどである。すなわち、各国は表現の自由を守ることとレイシズムを抑制することの間でバランスを取ってきた(ただし、ホロコースト否定を禁止する法律は例外である)。ところで、人間の尊厳や名誉等に強く価値を置くヨーロッパのありようが、国連の文書にも反映されており、国連の文書が回りまわってヨーロッパの国内の法律を支持する。国連の人権関連委員会から勧告を受けるや、ヨーロッパ諸国が法改正へ動く経緯に、驚きを感じる。同時に、多数の勧告を繰り返し受けながらも恥じる様子もなく法改正を急ごうとしない日本を恥じ、驚きを感じたことを情けなく思う。
 ヘイトスピーチを規制するヨーロッパと、表現に関しては自由放任的なアメリカのやり方は、異なる。アメリカ合衆国憲法修正第1条は、「連邦議会は…言論の自由を制限する法律を制定してはならない」と規定する。しかし、実際は、20世紀前半には各州はありとあらゆる理由(公衆道徳、個人の安全…)に基づき広範な言論を規制する法律を可決し、執行する裁量を有していた。20年代30年代に連邦最高裁が修正第1条を各州にも適用し、そうした規定を抑制するようになった、連邦最高裁も論争的な言論を保護するかと思えば、言論の自由により抑制的な判断するときもあった。州等がヘイトスピーチを制約する権利を限定し、表現の自由に対する広範な保護が定着するのは、60年代70年代である。反ナチのユダヤ系コミュニティも、公民権運動や反戦運動も、集団に対する名誉棄損を罰する立法の難点に気づき、理論的には保護から恩恵を受ける立場にあるとしても、実際には自分たちにとっても開かれた言論を許容する方が必要であると考えたというのが、興味深い。アフリカ系アメリカ人、貧困者、学生、若者たちは、自分の主張を最も強い言葉遣いで逮捕のおそれなく表現できることを望んだ。この点、移民が社会の中に根差し、発信できるまでの力を備えているかどうかで、保護がより必要かどうか、違いが生じるように思える。
 もっとも、アメリカでも、人種差別表現に対する制限はある。連邦最高裁もバランスを取ろうとしてきたし、議会や大学、企業等様々な機関は、ヘイトスピーチに裁判所より厳しい態度を示してきた。アメリカはひとつの成熟した市民社会を形成してきた。その社会では、極端な意見を無視すべきことを多くの市民が学んでおり、ひどい人種差別発言には、デモや広報等で、レイシストの活動を制約する様々な方法で対抗する。ヨーロッパ市民社会でもまた、極端な人種差別発言は社会の大多数の市民から無視される。著者はアメリカのアプローチも評価しつつ、しかし、インターネット上のレイシストの存在感が増している今日にもそれが最適かを再考するべきではないかと示唆する。
 本書は、表現の自由のみならず、結社の自由に関する法律およびその執行についても、異なる歴史をたどっている3か国(アメリカ、ベルギー、ドイツ)を比較対比して掘り下げる。人種差別団体の禁止が実質的に否定的な結果をもたらすとする証拠はほとんどない。ドイツにおける社会主義帝国党の解散、人種差別右翼団体の禁止は、危険な団体の数を抑え込み、極右団体構成員の数を抑制した。ベルギーでは人種差別政党を罰することによって党を消滅させることは出来なかったが、発言を抑制することはできた。自由放任なアメリカの経験からすると、条件さえ整えば、人種差別団体に脚光を浴びさせないまま周辺化することができることがわかるが、しかし、小規模集団への対処には失敗する(オクラホマシティ爆破事件のような暴力的な人種差別活動の温床を残す)。人種差別団体の非合法化や取り締まりは、レイシズムの問題を解決するのではないし、自由の犠牲を伴うが、それらの団体を弱体化させることは間違いないし、表現や結社についての深刻な委縮効果をもたらすものではない、というのが、本書の結論である。
 表現の自由への忠誠を掲げるアメリカは意外なことに、ヘイトクライムの非合法化のリーダーの役割を果たしてきた。言論と行為の区別は明確ではない。誰かの庭の芝生の上で十字架を燃やす行為が保護されるべき言論だとみなされる一方、「あの白人のガキをぶちのめせ」という発言がヘイトクライムの行為の一部として罰せられる。このような困難があっても、アメリカは、ヘイトクライムにおける人種差別的要素に特別の刑罰を求めることを決断してきた。そして、世論のシフトを受けて、イギリスではヨーロッパにおいて最も高度に発達した差別禁止制度を持つに至った。初期は、抜け穴が多かった関係法も、出自や出身国にかかわる差別をすべて許容しないまでになった。ドイツは、戦後すぐに多くの人種差別表現を違法化したことからすると意外なことに、ヨーロッパで人種差別とヘイトクライムに対して刑罰を定める法律や政策を発達させるのが最も遅かった国のひとつである。EU、欧州評議会、国連、そして国内の市民団体からの強い批判により、ようやく2006年に差別禁止法をさせたドイツが、特別なヘイトクライム条項を制定する可能性は高いと著者は予想する。例外的な遅れの理由は、1990年代終わりまでドイツの市民権がほとんどエスニシティに基づいていたという事実によって部分的には説明できる、すなわち、非白人たちはドイツ市民でなかったために、ドイツ当局は労働市場や市民社会において非白人を守らなくてはならないという圧力を感じなかったのだ、というくだりに、日本を想起せざるを得ない。実際ドイツは選挙の結果時に世論の重心がかなり右派寄りにシフトする等して、差別禁止法の制定が遅延した。しかし、条約義務違反とするEU裁判所の判決と緑の党の圧力を受けるなどして、ドイツも重い腰をあげたのだ。
 欧米諸国が自由の確保に努める一方、レイシズムと闘うことにも力を尽くしてきたことに、圧倒される。日本では果たしてどちらの価値の実現についても、行政府・立法府に全力で取り組むべきこととして意識されているだろうか、と随所で嘆息せざるを得ない。いや傍観者として嘆息していてはいけない。自由と反レイシズムのバランスは文脈の中で再検討され修正されていくが、それは、自由と反レイシズムのジレンマに深い関心を持つ市民が、活発に参加していることの反映である、と著者は書く。市民が傍観者として嘆息していては、行政府・立法府を動かすことはできない。現在、日本ではヘイトスピーチも規制されずヘイトクライムも刑罰を加重されない。これは自由の擁護を目指しているというよりむしろレイシズムを許容していた19世紀の欧米と同様なのではないか。自由を支持しレイシズムと闘うことにほとんどの市民が合意できても、より多くの自由と引き換えにかなりの程度のレイシズムを許容する者もいれば、レイシズムと闘うことは多くの自由を犠牲にしてもなお価値があることだという者もいるだろう。自分の立ち位置を考えることは重要だが、しかし抽象的な議論は「頭の体操」に過ぎないと著者はいう。具体的な政策の選択肢につき、その文脈と影響を注意深く精査した上で反省的に考えることのほうが生産的である、という著者に賛成である。日本にいる私たちも、自由を擁護するかレイシズムと闘うかという二項対立的な抽象論ではなく、具体的な政策を考え抜くときにきている。
 各国の法政策と歴史を比較するだけで研究書としては十分価値がある本書は、さらに、実践的な課題に踏み込む。レイシズムの制限について一致した意見が得られないのならどうやったら適切な政策を実現できるのか。自由民主主義の核心を問う課題である。政策の民主的正当性を確証する方法は、市民が実際に参加し熟議することを育むことである。とすると、基本的な価値のバランスをとる中心的な役割は、議会に期待される。しかし、多数派によって構成される議会がつねに正しいことをするわけではない。立法府より裁判所の方が内省的で公平であり、期待できるという研究者は少なくない。とはいえ、選挙で選ばれていない司法の役割は自ずと限定的である、と著者はいう。議会も裁判所も、民意を反映する完璧な道具ではない。どの程度の自由をレイシストに与えるべきか。著者の最終的な答えに奮い立つ読者が多いことを望む。「歴史を見て、文脈と影響に注意せよ。原則を練り上げ、友人を説得し、議員に訴えよ。そして、うまくつきあっていける価値のバランスとともに歩んで行くのだ。」(良)
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