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木村草太著『テレビが伝えない 憲法の話』PHP新書 2014年

 「このタイトル…編集者が読者を惹きつけるためにチャラくつけたのだろう、憲法学者がつけるわけない…」と思って読み始めたら、「テレビをはじめとした従来のメディアが伝えなかったこと」を書こうという木村先生ご自身の意気込みを反映したタイトルであると知る。つい「マスゴミが伝えない真実がここに!」という勇ましい糾弾を連想するがそうではなく、スタッフも忙しく、憲法問題を勉強している時間がない等とメディアの限界を寛容に理解しつつ、メディアが伝えないこと、それは「憲法学の楽しさ」である、そしてその楽しさを理解するには、憲法学の正確な理解が必要であり、ならばそれを知るために役に立つ本を著したいとのこと。憲法学は「堅苦しくて、難しそう」と敬遠する人もいるだろうが、憲法学が対象とする問題は生活に根強くかかわっている。一人ひとり全く違う個性を持ち、違う考え方をする、それでも様々な人間関係の中で生きざるを得ない、だから息苦しい。どうやったら良い人間関係、団体をつくれるだろうか、という問題を人類は長年考えてきた。憲法学もその試みのひとつなのだ。この最初の紹介から、民主主義や個人の尊厳を平易に語ろうとするチャレンジ精神を感じ、わくわくしてくる。
 さすが木村先生、この薄い新書の中で、憲法の価値、内容、憲法が保障する人権規定をどう使うのか、どのように憲法9条改正論議に臨むべきか、押し付け憲法論の愚かしさ、などを次々と取り上げ考察していく。以下は、憲法好きな私が「なるほど!」とあらためて思った幾つかの点をピックアップする。
 まずは、憲法には三つの顔がある、第1の顔は、国内の最高法規であること。ここまでは、わかっていた。しかし、ほかの顔もある。外国の人に対するメッセージを発信する文書、すなわち「外交宣言」としての第2の顔。国際社会に、日本は「強権的で人権侵害も平気で行う国」ではないこと、「皆さんを信頼しています」とのメッセージを発している。前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」を「非現実的な理想主義」とそしり、削除すべきだと主張する人がいるが、削除したら「信頼しないぞ」と宣言するに等しい。失うものばかりで得るものは何もない、と木村先生はきっぱり言う。そして、歴史物語の象徴としての第三の顔。この第三の顔があるからこそ、他の法律と異なり、熱烈な愛着や激しい憎悪の対象となり、憲法論には不合理な感情論が渦巻いてしまう。なるほど。
 立憲主義からすると、憲法はただ国家を成り立たせるルールなのではなく、国家権力を統制し、濫用を防ぐための非常に重要なルールだとわかる。「憲法は国家を縛るものだ」という意義の重みを噛みしめなければいけない(そんな時代にさしかかっている不幸を想わざるを得ない…)。
 国民主権の原理について、「国民」とは「有権者の多数決」という誤解が広まっているのが気になる、と木村先生は記す。「多数決」を取るには意見対立があるのが前提であり、半数近い反対者がいることは忘れてはならない。また、国家は数世代に渡り継続する団体であるから、主権を担う「国民」には現役世代の有権者だけではなく、子どもやまだ生まれてもいない将来世代の国民までもが含まれる。となると、上の誤解は、少数派や将来世代を無視する、不合理な解釈である。主権を担うべき「国民」の意思とは、少数派や将来世代のことも考慮にいれた、「国民全体の利益」を実現しようとする意思のことをいうと理解すべきなのだ。
 「権利ばかりで、義務がないのはおかしい」という素朴な感情から「公益を尊重する義務」を導入する改憲案が提案されたりする。木村先生はピシャリと言ってくれる。「しかし、そんな無限定で抽象的な義務を規定すれば『コレが公益デス!』という理由で、時の権力者が自由にあらゆる権利を制限できてしまうことになり、個人の尊重は雲散霧消してしまうだろう」、まさにその通り!「法律文書を読む時、作る時は、法律文書の性質をよく考えて言葉を慎重に選ばなければならない」と、さらに厳しく畳みかけているのが、痛快だ。
 権利は紙に書いてあるだけでは実現できない。憲法に違反する法律や命令は無効だ(憲法98条1項)。そして無効だと宣言できるのは裁判所である(憲法81条)。法律や命令により権利を侵害された個人は、裁判所に訴え出て、その不当を主張できるのだ。選挙で何十万票も獲得した議員は「話も上手く」「何らかの意味で人を惹き付ける魅力を持っている」(こういう皮肉が今までの憲法学の本にはなかったのでは(笑))、海千山千の国会議員に面と向かって、この法律は憲法に違反すると主張し説得するのは難しい。しかし、裁判官には、理屈を説けばよい。理屈勝負の憲法訴訟論の魅力を知ってもらおうと、婚外子の法定相続分訴訟が取り上げられる。違憲説、合憲説、それぞれの主張が紹介され、最終的に違憲と判断される過程をたどった後、木村先生は、「法律家の議論は、まどろっこしく思えるかもしれない」、しかし、当たり前に思えることをきちんと言語化すること、法的理論として表現することはとても大事だ、なぜなら、常識が誤っていることは少なからずあり、法的理論により一般化可能な説明を追究することで、「法の支配」が実現するからだ、と。夫婦同姓を強制する民法750条の違憲性を主張し最高裁大法廷に回付された事件を担当する弁護団の一人として、身が引き締まる思いである。
 特に驚いたのは、憲法9条を取り上げた第4章である。憲法9条は護憲派も改憲派も、世界に類をみない「特別な条項」とみなしているが、正しい理解ではない、国際法の武力不行使原則を確認した規定なのだ、というのである。護憲派として落ち込む必要はない。憲法9条を削除しても、「周辺諸国との緊張への対応」のために採り得る選択肢が増えるわけではなく、「自衛戦争」ができるようになるわけではない。「日本の防衛力の強化」のために憲法9条を改正しようという人は、憲法9条と国際法に関する正確な知識を欠いている、とこれまたばっさり。国際法原則の確認に留まるにしても、9条があることは、きわめて有意義である、なぜなら、国民がそれを理解しやすくなり、政府は、防衛組織活動に関する説明責任を果たす必要が生じるし、外交宣言としてのインパクトも大きいからであると。どうしても改正したいなら、国際平和の理念を掲げ、国内外の信頼を醸成するために、極めて慎重な言説を積み重ねる必要がある、にもかかわらず、慰安婦発言、ナチス発言、侵略否定発言といったタイムリーエラーを重ねれば、改正はどんどん遠くなる、とさらに手厳しい。9条改正の前提が整っていないことを喜ぶべきか、国際的な信用の低下を悲しむべきか。
 憲法96条改正論議につき、一時期与党側が盛り上げようとしたが引っ込めたので、今では余裕を持って読める第5章も、なお読む意義がある。同条改憲論の理由のひとつ、諸外国より日本は改正要件が厳しい、というのも、正確ではない等と小気味よく斥けられる。「「3分の2→過半数」という96条改正は、@野党から改憲拒否権を奪い、A国民投票を与党の道具にしてしまい、B政治ゲームを極めて不公平なものへと変える、戦慄すべき事態」であったのだ。「大事なことは国民が決めます。何が大事かは政権与党が決めます」というブラックジョークを実現してはいけない。
 終章の、「押し付け憲法論」の本質が、敗戦国の屈辱から逃れたいという叫びである、との指摘は、これまた鋭い。内容とは関係なく、「敗戦の屈辱の象徴」として日本国憲法を位置付ける物語に、理屈からすると、「不合理だから相手にしない」という態度がありうる。研究者はおおむねそうしてきた。しかし、首相の地位にある人物までもが「屈辱の物語」をベースに立憲主義を揺るがそうとしている事態に、なぜ少なからぬ人がこの物語に惹きつけられるのかを考えるべきときにきている。この手の物語の厄介なところは、「分かりやすい」ところだ。時間をかけて落ち着いて考えれば、「分かりやすい」議論の限界がわかってくる。憲法の条文事態を読めば、十分に納得できる合理的な内容とわかる。その内容で評価すべきだ、という理性的な議論を定着させることが重要だ、というのは大賛成だが、木村先生も指摘する通り、疲れていると、「分かりやすい」議論に飛びついていく。不安はつきない。しかし諦めずに。
 憲法が大好きである私には、いささか脱線しているようで一応筋におさまるたとえ話や冗談には、つきあいきれない…と思うこともないではなかった。しかし、本著は、もともと憲法が大好きな人を読者に想定していないのだろう。憲法はあまり知らん、さらりと読めるものなら、読んでみてもいいな、という人を想定しているのだろう。だからこの語り口もいいのかもしれないと頑張って読み続けたところ、学びを深められた。一見軽いノリの文体に、多くの人が憲法の魅力に惹きつけられるきっかけとなることを願う。(良)
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