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坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』岩波新書 2015年

 自分たちのことを伝統や権威、宗教や君主に任せるのではなく、自分たちで決めてみせよう。それが民主制の基本理念だ。しかしどのように「自分たち」の意思、すなわち異なる多数の意思を一つに集約するか。日本では、集約ルールとして、多数決が専ら使われる。
 多数決というと、いかにも「多数派」の意思を反映していそうだ。その思い込みのもと、私もしばしば「国会の議決=「多数派」の意思で少数派をないがしろにすべきでない」といった言い方をしてしまう。しかし、当たり前のように用いられている多数決は、人びとの意思を適切に集約できているのだろうか。選挙は人々の利害対立を煽り、社会の分断を招く機会となっていないだろうか。これは政治家や有権者が悪いのではなく、自明視されている多数決が悪いのではないだろうか。本著は、社会的選択理論に基づき、多数決を精査し、その代替案を探索する。
 多数決で、多数派の意見が常に尊重されているわけでもない。たとえば、2000年のアメリカ大統領選。共和党のジョージ・W・ブッシュと民主党のアル・ゴアが熾烈に戦っていた際、そのままいけばおそらくゴアが勝ったはずだった。しかし、途中で第三の候補としてラルフ・ネーダーが立候補した。その政策はブッシュよりゴアに近く、ネーダーはゴアの支持層の一部を奪った。結局、ブッシュが勝つ。票が割れるという、至極簡単な話だ。その後ブッシュ大統領のもとアメリカが一連の「テロとの戦争」を始めたことも踏まえると、泡まつ候補ネーダーはその後の世界情勢に影響を与えたといえる。しかし、二大政党による政治に閉塞感を抱える有権者に新たな選択肢を与えたネーダーが立候補したことが悪いわけでもない。しかし、ネーダーに投票した有権者だって、ブッシュよりゴアのほうがましとは思っていたはずだが、こんな顛末になってしまう。悪いのは、ネーダーや有権者ではなく、多数決ではないだろうか。目からうろこ。決め方が悪いのだ。
 本著は、200年以上前、フランス革命前のパリ王立科学アカデミーでの研究にさかのぼり、多数決を含む集約ルールの研究の蓄積をコンパクトに紹介してくれる。
 3人以上の候補(選択肢)がいる中でベアごとの多数決で他のあらゆる選択肢に負けてしまうペア敗者が、全体での多数決だと「最多票」を得たとして勝利してしまうことがある。それが果たして適切だろうか。1770年、パリ王立科学アカデミーで科学者のボルタは多数決ではない集約ルールを提案する。すなわち、選択肢が3つだとすれば、1位には3点、2位には2点、3位には1点というように加算する。このボルダルールによれば、選択肢が何個でも、有権者が何人でも、選択肢への順序付けがどのようであっても、「いかなるときもペア敗者を選ばない」という、ペア敗者基準を満たす。このボルダルールは、国政レベルでも、たとえばスロヴェニアで採用されており、右派勢力が政権を組むのは相対的に難しくなっているという。
 ボルダルールの説明を読み進めると、「おお、これを採用しよう」という気になるが、このルールも満点ではない。以前大統領選挙にボルダルールを採用していたが今は止めてしまったキリバスが実際に経験したことだが、「クローン問題」が起こり得る。クローン問題とは、当選者が複数いる選挙(当選者が1人のときは起こらない)でボルダルールを使うとき、組織力が高い集団は、クローン候補を擁立して上位を独占することができてしまうのだ。他方、ナウルが中選挙区制で用いるダウダールールは「1位に1点、2位に1/2点、3位に1/3点」と配点するスコアリングルールを使う。これによると2位以下につく点数が少なく、クローンを用いた上位独占は困難だが、1位に相対的に重いウエイトを与え多数決により近いため、ペア敗者基準を満たさない。
 ボルダを激しく批判したコンドルセ(なぜそれほどまでに激しく批判したのかは諸説(「若気の至り」etc.)があるらしい。こうした随所にある余談がまた面白い)は、統計学的発想から、選択肢が3つ以上あり、それら全体に順序をつけることが目的として、選択肢を2つずつ取り出して、ペアごとに多数決をして勝敗のデータを集め、そのデータを吟味して、データを生み出した背後の真実、正しい順序を推測する。しかし、XがYに勝ち、YがZに勝ち、ZがXに勝つというサイクルが生じてしまうという問題が生じる(コンドルセのパラドックス)。コンドルセにとってはパラドックスでも何でもない、容易に解消できる問題である。すなわち、データのうち最も得票差が少ない、たとえば「ZがXに、7対6で勝つ」を「正しい可能性が低い」という理由で退け、サイクルを解消し、順序を確定する(コンドルセの方法)。しかし、この方法では選択肢が4つ以上あるときは、うまく機能しない。コンドルセはその解消方法を短い文章で示唆していた。その真意が発見されたのは、コンドルセ没後(コンドルセもまたロベスピエールと対立しギロチンの露と消えた…)約200年を経て、高度な数理分析能力を持つ経済学者ペイトン・ヤングによるという。サイクルがある場合、データは不整合である。その不整合性を、データ間のズレ、誤差として考える。選択肢への「真の順序」との誤差だ。真の順序は神のみぞ知る。不整合であるが手元にあるデータから逆算して、統計学的に見てデータとのズレが一番少ない、一番真実である可能性が高い順序を求めればよい(コンドルセ・ヤングの最尤法)。
 様々な集約ルール。そのどれを使うかで結果は大きく変わる。そうすると、「民意」というよく使われる言葉が疑わしくなってくる。選挙で勝ったから民意が示されたといばる政治家がいるが、果たしてどうか。それは多数決など集約ルールが与えた結果に過ぎないのではないか。そうだとすれば、適切な集約ルールを選んで使うべきなのだ。そして様々な吟味を経た上で、著者は一つの選択肢を決める投票(小選挙区制のもとでの国会議員選挙、自治体の長の選挙)では、「ボルダルールを使うのがよい」、「これは国会で公職選挙法を改正すれば可能である」とさらりと述べる。これまで、「一票の格差」などの問題は見聞きしていたが、集約ルールの選択でがらりと結果が変わり得ることを思えば、この点についてももっと注目されるべきだろう。
 第3章以下では、望ましい集約ルールの探究を超えて、ルソーの社会契約論をもとに、近代市民社会を支える根本理念を照射する。少数派が多数派の投票結果に従うのが正当であるのは、人々が熟議的理性を働かせた投票であることなど。いずれも、今なお、いや相変わらず「利権」やら「組織票」とやらで左右される日本の政治情勢を思うとき、大切な議論が展開される。
 もっと引用したいが既に長すぎるので、ひとつだけ。改憲の硬性は、多数派の暴走が少数派の権利を侵害することへの歯止めとして重視される。しかし、そもそも多数決は暴走しなくともサイクルという構造的難点を抱えており、その解消には3分の2に近い値の64%が必要だ、憲法96条は見かけより弱く、はるかに改憲しにくくなるように改憲すべきだ、というのだ(!)。「具体的には、国民投票における改憲可決ラインを現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのが良い」。そ、そうなのか。社会的選択理論に基づき、さらさら記述される指摘は驚きだ。確かにその点だけ改憲してもいい、いや改憲したい、と護憲派の私でも思った。
 最終章には、都道328号線問題を取り上げ、多数決さえまともにさせてもらえない現状を疑うことの大切さを説く。本著の最後の言葉を引用しよう。「社会制度は天や自然から与えられるものではなく、人間が作るものだ。人間は自由なものとして生まれたが、至るところで鉄鎖につながれている、とルソーは述べた。未来を描き、いまある現実とあるべき姿を明確に区別するということ。現行制度が与える固定観念がいかに強くとも、それはまぼろしの鉄鎖にすぎない」(良)
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