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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
テッサ・モーリス-スズキ『過去は死なない―メディア・記憶・歴史』岩波現代文庫 2004年

 本書の刊行は、2004年、このレビューを書いている2016年から12年も前である。しかし、歴史認識が、政治・外交・教育の領域で一層熾烈な論争の場になっている現在、複数のメディアが過去をどのように解釈し提供するか、その特徴を抽出し、軌跡をたどり、そこにどのような力学が働いているかを解析する本著を、今なお切迫感を感じながら読んだ。
 本書はまず冒頭で、世界各地での謝罪と歴史修正主義をめぐる紛争と同じく、歴史知識の世代間伝達の問題とそれに密接に関わる歴史責任の問題を浮き彫りにする日本の教科書論争を論評する。1996年、新しい歴史教科書をつくる会が発足する。本書によれば、「従軍慰安婦」が組織的な性的搾取を意図した軍部の政策の犠牲者だったことを否定し、南京大虐殺等の軍事侵略の事例の意味を最小限に抑えるための論陣をはったつくる会の活動は、過去の理解を「修正」するだけではなく、特定の出来事を公共の意識から抹殺することを目的とする、20世紀末の「抹殺の歴史学」の一環をなすとのことである。つくる会の教科書は、歴史学研究者らから多くの非難を浴び、採択した中学校の割合は0.1%に満たなかった(本書執筆当時。現在は…)。しかし、つくる会の教科書に対する批判は、個別の誤りや脱落を追及するうちに、細かく枝分かれした小道に迷い込んでいった。そして、批判者たちは、「記憶の暗殺者」(ピエール・ヴイダル=ナケ)と闘う世界の人々と共通の哲学的ジレンマに直面した。ポストモダン、ポスト構造主義の影響下、知識人たちは、あらゆる叙述は構成されたものであると意識し、普遍的な科学的真理の主張には警戒する。そのため、次のジレンマに直面する。つくる会の「間違った」叙述を、それに代わる権威ある「正しい」叙述に置き換える単純な実証主義に陥ることなく、効果的に批判するには、どうしたらいいか?実際、つくる会のメンバーには、一種の擬ポストモダン主義を使って、自らのナショナリスト的見方を補強しようとする者もいた。
 しかし、ホロコーストや日本軍のアジア侵略といった出来事に対して、すべての叙述は「構成されたもの」であるとして等しくみなすことは、過去に対して責任を引き受ける可能性を放棄することである。しかし、ジレンマは残る。
 さらに、教科書をめぐる議論の第二の問題は、それらが教科書のみ、公式な学校の歴史教育の内容のみを取り上げていることだ。しかし、今日、私たちは多岐にわたるメディアから過去を学んでいる。この点について、本書は、第2章以下で、歴史小説や写真集、TVドキュメンタリーや劇場映画といった様々な形態において、メディアと記憶がいかに互いを形成していくかを探っていく。
 一方の視点からみれば、歴史は「解釈」の研究である。様々な出来事のあいだの因果関係、思想や制度の系譜、社会に変化をもたらす力を理解するための知識の探究である。しかし、歴史は「一体化」identificationの問題でもある。過去との関係は、知識だけでなく、想像力や共感によっても形づくられる。文字資料だけでなく、展示資料館、記念館、史跡は私たちを過去に生きた人々に共感させる。この共感により私たちはある特定の集団(国家、地域社会、少数民族、宗教団体…)に帰属している感覚を覚える。「我ら回想す、故に我らあり」(ヨス・ペリー)。
 「解釈」と「一体化」には緊張関係があるが、本書は、「解釈としての歴史」のほうが「一体化としての歴史」より好ましい(あるいはその逆)とは主張しない。むしろ、アカデミックな歴史は感情を敬遠しがちだったが、過去についての理解は、純粋な知識と同時に感情や想像力を伴うことを認めることから出発しよう、と提案する。そうすれば、「一体化としての歴史」と「解釈としての歴史」がどう互いに絡み合うか等の問題を検討することができる。過去の解釈的側面のみならず情緒的な側面も認め、情緒の原因や意味を考察することが重要なのだ。過去についての特定のイメージに感動し、ほかのイメージに感動しないのはなぜか。そのような情緒的な没入は、出来事の原因や結果の解釈にどう影響するのか。メディアは「一体化としての歴史」と「解釈としての歴史」の相互作用にどのように影響するのか。著者は、「歴史責任」よりももっと広い意味での「implication(本著では連累と訳されている)」の形成に関心を向ける。
 1945年以後に生まれたドイツ人がホロコーストに直接的な法的責任を負うのではないし、同様に1945年以後に生まれた日本人が南京大虐殺に原因責任を追っていない。最近移住したオーストラリア人は植民地入植者によるアボリジニ虐殺に原因責任を負っていない。しかし、あとから来た世代も、多くの場合歴史上の暴力や弾圧の結果としての恩恵を受けており、「事後従犯」である。さらに、後からきた世代の生も過去の想像力やあるいは残虐行為によって形作られているという意味(制度、概念等の網も歴史の産物である)での過去へのimplicationがある。「過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生き続けており、それを排除するために積極的な行動にでない限り、現在の世代の心のなかにしっかりと居すわりつづける」。これらの記述に、この社会で耳をふさごうとしても入ってくるヘイトスピーチを否応なく想起する。
 そして、マスメディアを通して、過去について語りなおされた物語が、わたしたちの心に生き、現在の出来事にいかに面と向かうか、あるいは立ち向かおうとしないかに、影響を与える。
 第1章から強く打たれた部分の引用だけでここまできてしまった。第2章以下の様々なメディアによりもたらされた歴史像の推移についての考察も、緊張感に富む。歴史観が多様なメディアによってつくられていることに自覚的になり、それらのメディアを批判的に使いこなすこと、「歴史教育」とは「過去についての自分の理解を自分で育てていけるような力」を身に着けるよう促すことであるべきと提案する。この国の学校教育上、歴史教育は全く逆の方向に進んでいるような気がしてならないが、だからこそなおこの視点を強調する必要がある。
 本著は、implicationだけではなく、問いを発し、情報に基づいた意見をもつという、歴史への「真摯さ」をキーワードとする。「真摯さ」とは、「異なる場所、社会的背景、思想的観点からおなじ出来事を見る(見た)人たちによって創られた、過去の異なる表現に注意をはらう意欲と能力」とも言い換えられる。歴史の理解にこの真摯さが備えられていれば、ポストモダンを経た後でも、相対主義を斥けることができる。
 「抹殺の歴史学」と対決しようとする、非常に真摯でパワフルな「希望と勇気の書」(成田龍教授の解説)である。(良)
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