判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
大泉実成・梶田陽介・加藤直樹・木村元彦著『さらば、ヘイト本!嫌韓反中本ブームの裏側』ころから 2015年

 かつて私にとって本屋さんはワンダーランド、あっちの棚こっちの棚をさまよっては、「こんな本があるなんて!」とわくわくする場所だった。限られたお小遣い、バイト代のなかで、どの一冊にするか、本屋さんで粘って粘って考え抜くのも、また楽しいことだった。大人買いできる大人になったというのに、すっかり本屋をさまよわなくなったのは、多忙だから、だけではない。嫌韓反中本や日本礼賛本がずらりと平積みされた光景にぎょっとさせられる書店は、かつて輝いていたワンダーランドではない。足を踏み入れたくない場所に堕ちてしまったからだ。
 本著によると、私が書店から遠ざかるようになった間に、嫌韓反中本はすでにオワコン(終わったコンテンツ)になったという。あー、よかった、と済ませてはいけない。ヘイト本ブームとはなんだったのか、だれがどのようにしてそれらを作り続けたのか、どんな出版社が嫌韓反中を扇動する本を作ったのか、検証することなしに、ヘイト本ブームを真に終わらせることはできない。検証なしでは、たとえ、嫌韓反中本がオワコンになろうとも、また別の標的をうみだすことを止められないのだから、そしてヘイト本を放置しておけば、虐殺など凄まじい暴力、人権侵害につながりかねないだから(「不逞朝鮮人」をあげつらう報道が繰り返された結果関東大震災後に朝鮮人虐殺が起こったように…)と著者らは危惧を持って本著をまとめた。
 第1章には、編集プロダクション社員が嫌韓誘導記事を量産していた際の経験を語るインタビューが載っている。韓国紙3紙が嫌韓ネタの情報源。日本をほめているところは一切拾わず、あくまで日本を非難している部分だけを使う。休みもほとんどなかった。借金を返しながらの自転車操業の会社であったから、借金を返しながら売り上げを立てるべく、本を作り続けるほかなかった。編プロは請負企業で、とにかくやれるもだったら何でもやる、出せるものだったら何でも出すというのが、続けてきた根っこの部分にある、というのが、悲しい。さしたるイデオロギー的主張がないにもかかわらず、嫌韓本を出し続けたことに、どこの出版社と仕事をしようともその期待に応えることが正義だったという反面、懺悔の気持ちもあるという。嫌韓本の量産は、実直な人柄のこのようなひとが、真摯に仕事に打ちこんだ結果ということに、愕然とする。ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年)で、ナチスによって行われた凄まじい犯罪が、悪魔のような人物ではなく、凡庸な人間によって担われた、ということを喝破したことを想起する。
 第2章では、かつて水木しげるの「主戦場」であり、思いいれの強い人も多い漫画誌「ガロ」を出していた青林堂が、ヘイト本を量産するようになった過程がまとめられている。水木しげるらが深く信頼していた創業者(かっちゃん)の死後、経営側と編集側が対立し、編集者が大挙して会社を去った。その後経営を担うことになった蟹江幹彦社長は、出版や漫画編集とはかけ離れた仕事をしてきた人であった。一時期青林堂の保守雑誌「ジャパニズム」の編集に携わった保守論客古谷経衡さんと元アルバイトへのインタビューも載っている。これを読む前は、「儲けんがため」に保守雑誌を出していると思っていたが(東京新聞にもそのような記事があったが)、どうも違うらしい。蟹江社長自らのネット右翼思想を雑誌で表現したくて、赤字でも続けていたというのだ。「まっとうな保守」を貫こうとした古谷さんは、在特会にも批判的であり、蟹江社長のネット右翼趣味ないし理想に沿うことはできず、8号から編集長をつとめたが11号で解任された。ネットばかりみている蟹江社長が変わる可能性があるのだろうか。古谷さんは悲観的だ。「少しでも気に入らないことを言う人間は、みんな「サヨクでしょ」と言って切り捨ててしまい、それ以上考えない」と…。採算度外視のヘイト版元が変わる可能性を期待できないのは、辛い。
 第3章の、『WiLL』の花田紀凱編集長が、ヘイト本を出し続ける出版業界の状況に鑑みてパブリッシャーや文筆家たちが議論するという趣旨で開かれたイベントで、「ヘイト本と批判することがヘイトスピーチじゃないか!」と逆ギレしたエピソードを読んでいると、さらに、絶望感が深まる。ヘイトスピーチは単なる悪口や批判ではない。人種や民族などの属性について差別を助長し扇動する言説のことであることすら知らず、批判をはねつけるとは。イベント中、「どのような社会を望んで雑誌を作っているのか?」を問われて、花田編集長が言いよどんだというところが興味深い。無思考は、凡庸な悪の担い手たちの特色だった。
 「関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった」本がいかに根拠がなく、資料をいい加減に切り貼りして書かれた悪質なものかを丹念にたどった第4章も、「ヘイト本」羊頭狗肉度ランキングと銘打った第5章も、自分では決して手に取ろうとしない本を詳細に読みこんで精緻な批判をしているもので、頭が下がる。
 第6章の『マンガ大嫌韓流』を発行している晋遊舎の発行人である山中進編集局長へのインタビューも興味深い。なんと、当の発行人は、居心地の悪そうに、あのシリーズは原作を担当した編集者がただネットから拾った何の確証もない流言だと認めるのだ。そして、山中氏が小中学生のころハンブルクの日本人学校にいて、学校行事として、アウシュビッツやビルケナウの収容所博物館も見て回ったということに、一層絶望感を抱く。『「在日特権」の虚構』を表した野間易通氏と公開で議論する気はあるか?という質問に、「いいと思いますが…。主義主張がないので議論にならないかと思います」と答える山中氏にも、凡庸な悪の担い手の特徴である思考の欠如を感じざるを得ない。無思考といっても、全く思考がゼロということではない。山中氏は、かつて、コソボフィルの指揮者の本の企画をたてながら、木村元彦氏(今回山中氏に対してインタビューを担当)に依頼したところ、木村氏がそのコソボフィルが果たして民族融和を目指しているのかわからない、むしろ民族浄化を進めているコソボ政府の肝いりであるのではないか、と疑問視し断った際に、「自分もおかしいと感じていた」と素直な感想を漏らしたというのが印象深い。そう察することができる人が、あのコンテンツで、リアルな世界で中傷、罵倒された在日韓国・朝鮮人がどれだけ傷ついたのかを、気づかないのだろうか。気づいていたはずではないか、と木村氏とともに、慨嘆する。
 差別禁止法が制定されないという立法不作為により、編集者・経営者が思考停止のまま差別を煽る本を出し続ける今の状態はタガが外れている、差別禁止法の制定により、編集者・経営者が自ら判断するようになるのではないか、と後書きでころからパブリッシャーである木瀬貴吉氏は願いをこめて書く。そんなことで差別はなくならない、なんてうそぶく声も予想されるが、しかし、諦観してはいられない。思考停止しつつ差別的な憎悪をあおる社会を放置するのではなく、多様性を認め個人を尊重する社会を目指すべく、様々なチャレンジをしていかなくては。(良)
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK