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八木澤高明著『にっぽんフクシマ原発劇場』現代書館 2015年

 出版界で福島モノは売れないのが定説となっているという、とさらりと書きながら、そして「原発反対」という思いから福島に通ったわけではないとも書きながら、著者の八木澤さんは、帰還困難区域となっている浪江町津島に通い、「原発を起こした修羅場」を「傍観者」として見て、そこで見た現実を、過去を省みず目の前の現実を大事にしがちな私たちにも知らせてくれる(あくまで自分のためだ、と念押しをしながら)。
 モノクロの写真は、乾いたような、しかしときに感情が揺れているような、キャプションがつく。転がった牛の屍のアップには、「白昼に死臭漂う春うらら。人の死体はどんな臭いがするのか ふと思う」。「声の届く政治。公明党」とのポスターがぽつんと立つ道を野生化した牛4頭が歩いている写真には、「牛耳東風 村人はいません。もう誰にも届かないですよ」。天皇一家の写真を掲げた室内の写真には「ご一家は無事のようで何よりです」。
 足しげく通う八木澤さんを快く泊まらせ、一宿一飯ならぬ、百宿百飯を提供した三瓶さんご夫妻らは原発事故後も牛の世話のためしばし津島に残り、その後本宮市に避難し、酪農を再開している。『北の国から』の主人公五郎さんのようなひとたち。避難先から津島の様子を見に行くときも著者は同行する。「せつねぇーな」と荒れ果てた津島の景色をみて奥さんの恵子さんがぽつりと漏らす。生まれ育った、かけがえのない村が荒れ果てていく。懸命に築き上げた生業の基盤が崩される。「せつねぇーな」には、いったいどれだけの想いが詰まっているのだろう。そのときはそう思うまでもなかったけれども、「あんときの生活は天国だった」としみじみ思い出す恵子さんの言葉に胸をつかれる。そしてそんな想いを抱えているのは、三瓶さんたちだけではない。本著にも思い入れのある、生活の、生きがいの基盤だった場所を根こそぎ奪われた人たちが幾人も登場するが、このような苛酷な経験をしているのは、著者が出会った本著中の人たちだけではないのだ。どうしてこのような状況を生み出す原発を平気で再稼働しようとする動きがあるのか、理解できない。
 原発の作業員の姿も垣間見られる。取材した料亭の店主は「どうも雰囲気がおかしいな」と思った宴のことを語る。これから原発に行く作業員を送り出す壮行会だった。「30代後半で家の跡を継がんでいい次男坊や、既に子どもがいる長男坊」が選ばれていた。『放射能が髪にくっつかんようにと、髪を剃った』ので、誰もがスキンヘッド。スキンヘッドの男たちは、しくしくと泣き、「大丈夫かな、もう子どももつくれないんじゃないか」と泣いていた。朝まで何度も何度も堂々巡りの話をしていた、という。70代の店主は、その様子を見て、幼いころみた、戦争に兵隊をバンザイ、バンザイと言って送り出した光景を思い出したという。作業員でにぎわう田町では、2011年8月ころまで、トラブルが絶えなかったという。以前はそんなことがなかったが、作業員は荒み、飲食店で物を壊したり、ケンカを繰り返した。原発は、様々な影響を及ぼす。
 八木澤さんは、六カ所村にも足を運ぶ。福島浜通り同様、主要な産業がなく経済的に貧しい地域、そこに原発や原発関連施設が建てられるのは、公知の事実だろう。六カ所村には原発の施設を引き受けた見返りの800人収容のコミュニティーセンターがある。田植え、炭鉱など、汗水たらす労働者はどの時代にも自ら歌う歌を欲してきた。しかし、八木澤さんが看破するように、原発労働者には歌がない。防護服を着ている以上、歌を歌いようもないのだ。その代り、そのコミュニティセンター、空調のきいた劇場で、秋川雅史などが、甲高く、「千の風になって」を歌う。炭鉱労働者のような、野太い声ではなくて。
 丁寧な取材により、一所懸命に生きてきた人たちのかけがえのない生活とそれが破壊される状況が浮かび上がる。読後、しばらく余韻で立てない。多くの人が読むべき一冊である。(良)
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