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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
小野美由紀『傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』幻冬舎文庫 2015年

 某巨大通販会社から機械的に届く「あなたにおすすめ」本で紹介されてふとクリック。「傷口」、「メンヘラ」、「就活に失敗」…これらのタームいずれも、気合い入れて仕事しまくり、「傷つくって何?」と鈍感力の強い私とは縁遠いはず。なのに、なぜ、ビッグデータは私にこれがヒットすると促すのだ?と若干訝しく思いつつ。
 読了。一文一文、心が震えた。一気に読んだ(ビッグデータ、侮りがたし)。留学、TOEIC950点、インターン等。「無敵の履歴」をひっさげ大企業の面接に臨むエスカレーター前で、黒革パンプスが動かなくなる…。パニック障害で就活を断念する冒頭で、すでに小野さんの経験を疑似体験して、胸がぎゅっと締め付けられる。
 小野さんはくだらない虚栄心、役に立たなかった学歴etc.の「いらない者」でぱんぱんにふくらんだ自分に気づく。いらないものを全部捨てたら、何が残るのだろう。20日かけて聖地まで500qの道のりを歩く、スペインの旅へ出かける。唐突な「自分探し」の旅のようだが、誠実に綴られる、その過程で出会う人たちとのやりとり、自分や周囲をとことん見つめなおす作業(そこまできてもまだ学歴へのプライドを捨てきれないといった醜さ、「結婚して子どもを持って家庭に入る女の人のほうが幸せだよ」と「世間の真理」を語るようになってしまったかつては尊敬していた先輩の鈍さ、自分の違う人を否定したことを怒ってくれたカウンセラーの言葉、母との確執、不登校、自傷行為に「キモチワルいからやめてほしい」と言われたときの納得…)の過程に、胸を打たれる。
 強烈な被虐体験や様々な残酷な経験をサバイバルしてきたというのに、人との関係に、そして人生に、希望を見出していくところが、素晴らしい。「抑圧の象徴」と思っていた中学時代の男性教諭と8年ぶりで会う。おそるおそる話しかける小野さんの顔を見るなり、50代の男性教諭は「お前、生きてたのか」と言って突然はらはらと大粒の涙をこぼした。「生きていて、本当に良かった」。そんなふうに言われるなんて思ってもみなかった小野さんは、自分が学校が嫌いだと息巻いていられたのは、背後にちゃんと見守ってくれている先生がいたからだ、しかりつける一方お前には文才があると言ってくれたのも、この先生だった、そのことを今まで忘れていた、無数のまなざしが、生きるのに必死な子どもの気づかなさを許容して、包んでくれているのだ…、と気づく。たった一言で、世界が変わる。当時は許せなかったことも、未来から過去を焼直すことで、許すことができる。違う形で、過去を生き直せる。そのたびに、再生することができる。
 幼いころから小野さんを呪い、嘲る母からの抑圧によくサバイバルしたと私はただただ感服するが、あるとき、小野さんは友人から「本当は全部自分で抱えるべき責任を、親のせいにしている。それじゃ、なんにも解決しないよ」と言われる。私は酷いことを言うと思ったが(小野さんのリストカットを「キモチワルい」といった同級生に対してと同様)、小野さんは、悔しさで震える一方、自分の中に強い恨みがあることに気づかせてくれた友人の勇敢さに感心しもする(上記の同級生に対しても同様に感謝する)。恨みで終わらず、見つめることを避けてきた自分を気づかせてくれたことに感謝できるところが、小野さんの強さだ。スペインの旅の終わり、自分を否定し、変わる自分をせきとめているのも自分だ、作り出していた孤独の中で勝手に一人でもがいていたのは自分だと悟る。そのシーンにも涙がとめどもなく出る。
 17年間会ってなかった父に会いに行くくだりも、心に残る。過剰な母とベクトルが正反対に向いている父と、17年ぶりに会って、「体内の染色体の90%くらいこの人からなんじゃないかと思うぐらい、似ている」と感じる。何でも熾烈に否定する母と対照的に、「38歳までアカデミックフリーターだった」という父は、「将来やりたいことが分からないけど、今決めなきゃいけないのがおっくうだ」と強がる小野さんに、「今決めなきゃいけないなんて誰が決めたんだ。人間死ぬまでモラトリアムだ」と言う。心が通じあう父と娘に、つい離婚弁護士として、親子の面会交流事案に苦労している身としては、いつだって人間関係の修復もありうるのだと、じーんと感じ入った。
 虐待としか思えない仕打ちをしてきた母との関係すら、やり直すことができる。父が「奥さん」(草木染のスモックのようなものを着た…。シャネルのスーツを着た母とどこまでも対照的だ)とつくりあげてきた家の中で、小野さんの中に、突然明るい諦めがあらわれる。「片親家庭=完璧でない家庭」とどこかで母と祖母を責めてきた自分を初めて恥じる。どんな家庭も完璧ではない。欠けがある。でも、欠けがあるというのは、再生の余地がある、ということではないか。カウンセリングで1万円払って、座布団を殴ったとき、私がしたかったことは座布団を殴ることではない、母と関わることなのだ、と悟った小野さんは、何千回目かの罵りの言葉を口にした母を、拳で殴った。いつものように逃げることもできたのに、泣きながら殴った。つい、人権尊重を旨とする弁護士として「うっ、それはいけない」と呻く場面だ。ところが、それ以来、小野さんの家族は劇的に変化したという。まず、母と祖母の関係が劇的に変わった。母は祖母を罵倒しなくなり、そっと散歩に連れ出したりする。母の小野さんに対する壊れているとしか思われない言動の原因は、小野さんも知らない母と祖母との関係の歪みにあったのかもしれない。小野さんも、母も苦しみ、寂しかったんだ、と理解し、許すことができるようになる。
 希望が生まれるのは、家族のような濃密な関係からだけではない。無関心なようで無言の連帯が生まれている銭湯通いを続ける中で、小野さんは元気になっていく。はだかになって、自分の価値基準からいっとき離れ、空白の場所に身を置くことで、生きている実感がわいていきたという。他人に少しだけ自分を開けるようになり、仕事もくるようになる。
 ずっともがいて、うつむいて、それでも、自分の中、他者との関係を諦めなかった小野さんは、足踏みの期間は無駄ではなかった、どんなに無駄だと思った様々な経験も、きちんと役に立った、その不思議な結ばれ方に驚く、と書く。鈍感ですから〜あらゆる痛みに麻痺してますから〜とふんぞり返っている私の中で、読み進めながら何か疼くものがある。もうすっかり遠ざかったはずのもがいていた時代の痛みや不安が湧き上がってくる。そして、小野さんが最後に書く、「社会はうつくしい。そのままでも、醜くても、不完全でも。動くことそれ自体がうつくしい。揺らぐからうつくしい。だから安心して、出てきてほしい。世界の見方は自分自身が更新するのだ。あまねく、他人とともに」というフレーズは、確かに私も過去に行き着いた「悟り」だ、と思い出し、涙が出た。(良)
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