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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
田房永子著『男しか行けない場所に女が行ってきました』イースト・プレス 2015年

 これは読む価値ありっと太鼓判!タイトルそのままの話なのだが、男しか行けない場所といってもほぼ必ず女もいる場所、風俗。しかし女はサービスを提供する側、サービスを受ける側としては男しかいない。端的に「私、サービスする人、僕、受ける人」そして汗をかいて真剣に取材する著者、という、ショボくもの悲しい状況を端的に表現している表紙の漫画から、既に内容を察することができ、苦笑させられる。そんな風俗の場所にエロ本で漫画やライターの仕事をしていた田房さんは足しげく取材に行った。取材で男の欲望のありかたに驚いたり、女の醒めかたに考えるところがあったりしても、本当のところは書けない。編集者から「そういうのはいらないです(笑)」と一蹴されて。男向けエロ本には、「女」についての情報がぎゅうぎゅう詰まっているようで、男の欲望、妄想をなぞることしか載せられていないのだ。そこは「女」から一番遠い世界だったと述懐する田房さんが、男向けエロ本には書けなかったことが書いたのが、本著である。
 不勉強である私が読んでいないだけかもしれないが、風俗をこれほど鋭い女の視点で批評した本を知らない。続々登場する風俗の新形態を紹介するもの、あるいは、風俗に「堕ちた」女を憐れむ本、そんな女の人権を弄ぶものとして男どもを糾弾する本、さらには、そういった視点こそ偏見に満ちていると指摘し高いプロ意識をもとにセックスワークを語る本、等々はあろう。しかし、田房さんの本著における関心は、女にはない。女がどうしてこの仕事に「堕ちたか」、あるいは、「プロ意識をもって取り組んでいるか」ではない。しかし、徹頭徹尾「女」の視点がある。「女である私」が「男だけが利用する風俗」をどうとらえたか、を突き詰めていく。考えてみれば、作り手ないしユーザーである男にもっと焦点が当てられても良いはずである。
 「はじめに」は、22歳のとき、一緒に暮らしていた男が風俗に行っていたことを知って、息もできないほどの憤りが体内から噴き出したエピソードから始まる。それは、「私という女がいながら」という怒りではなかった、「いい女を抱かないといい仕事はできない」という「仕事そのものが男だけのもの」という考えを前提にした、「女であるお前には決定権がない」ことを示されたことへの怒りだった、と10数年を経た今はわかる、と田房さんはいう。「小雪はババアだった。君のほうが全然いい」という男の言葉に癒されもした、と正直に書く。風俗を作るのも、小雪を雇うのも、利用するのも男。言い訳を唱えるのも男、若い女のほうが価値が高いと決めるのも男。男が作り上げた価値観で、自分の価値を図って、安堵した、若かったかつての自分…。
 人妻アロマオイルメッセージ、ドール専門風俗店、密着型理髪店、ストリップ劇場、ピンク映画館、パンチラ喫茶、オナニークラブ、メイドキャバクラ、AV撮影、DVD個室鑑賞、竜宮城風ガールズバー、おっぱいパブ…。帯には「お宅のダンナ(カレシ)、こんな楽しいことしてますよ…羨ましすぎるッ!(怒)」とあるが、どこのレポートを読んでも、何かもの悲しさあるいは滑稽さを感じ、羨ましくない。
 たとえば、人妻アロマオイルマッサージ。店長が堂々とチンポコを出し、人妻が仲良くおしゃべりしながらそれを揉む、「勃起したらものすごい大きさになるのかなと思ったらそうでもなかった」…等虚しさ侘しさが湧き上がるレポート。「堂々と出されるチンポコは見たくない」、「別に超絶テクニックが受けられるわけではない」という田房さんの感想は、エロ本読者たる男性には全く必要がない。ドール専門風俗店で、「哀川翔似」の店長ほか男が3人がかりで必死にドールに色っぽいポーズをさせようとするもなかなかうまくいかない。みなが真剣なので笑わないように必死に我慢した…これも男にはいらない情報。田房さんに一瞥もくれずケータイをいじりながら、「お客さんのおちんちんをいじってて濡れちゃったことはありますか」→「ない」、「お客さんに責められて本当にイッちゃったことはありますか」→「ない」、「性感帯はどこですか?」→「乳首とか書くとそこばかり責められてイヤだから肩って書いてください」と答える風俗嬢マリンちゃんに関する記事は、「なんと肩が性感帯というドスケベ敏感BODYの持ち主!」etc.とまとめられ、読者は「大変重苦しい空気だった」と知ることはない。
 これを男女逆転させても面白くて楽しいだろうか…。田房さんも女はこんなところを利用したくないだろう、と疑問を感じている様子が行間からあらわれている。たとえば、おっぱいパブ。「おっぱいが揉みたい」わけでもなく、男同士のコミュニケーションの場、男同士でコミュニケーションを図るためにわざわざ女の体を必要とする場であり、特に珍しいものではない。しかし、女にもしそういうお店があったら?若い男の乳首を触ってはしゃいだり、男の乳首を真剣に舐めている友だちや仕事仲間の女性を見て笑ったりできる店があったら?はしゃげない。きっと、「乳首をいじられる男の子がかわいそうだ」と思ってしまう。「この女の子は仕事でやっているから」という割り切り感覚がないのだ。「娼婦」的存在と「普通の女」的存在を分けて考えられるから、罪悪感がない。この先私たち女も割り切れるようになれるのか?というか、そもそもそうなりたいのか?という問いが胸中を渦巻くが、田房さんは急いでその問いには踏み込まない。現状がこうなっている、と分析するにとどめ、あとの判断は読者に委ねる。
 それにしても、田房さんの批評眼は鋭い。竜宮城バーで着席したとたん、ビーフストロガノフをジャバジャバ汚らしく食べ続けるビキニ姿の女の子に唖然とした田房さんは、一緒に行った男3人に、「あれはいいのか」と尋ねる。男たちは「うん、普通のことだよ」「どうせ余るし、むしろ食べてくれてありがとうって感じ」と口々に言う。男性従業員が席に着くお店に女友だちと行って、男性従業員が挨拶もなく料理を食べ出したら、仰天するのではないか。気づきもしないというのは、その従業員を人間ではなく、犬や猫とかの動物としか考えていないからではないのか。また、幼い子どもの世話を母親である妻に当然のように任せながら、性風俗を利用して終電で帰ることがある、そのために毎日「根回し」して仕事が早々と終わっても終電で帰宅するようにしているという男に、田房さんは憤慨して震えそうになる。その男は、風俗に行くことのみに妻に後ろめたいと感じているようだった。ズレている。その男の一番重い罪は、妻を裏切っていることでも、本番禁止の店でセックスしていることでもなく、日常的に育児を放棄していることだ、と指摘する田房さんの後ろで、「そうだっ!」と拳を突き上げたい。そんなことに気づかない男を中心に、この世の中は回っている、という指摘は鋭く、ずしんと重い。
 そのほか、「男性向けエロ」を扱う場で、男たちが、裸になるAV女優を「素敵だね、可愛いね」と最上級の立場に置く一方、女のスタッフをわざわざ「ブス!」とののしるのは、無意識のうちに、脱ぐ女がみじめな気持にならないよう、脱がない女との格差を最大限つけることによってバランスをとり円滑に進めようとしてのことだろう、と理解したとか(しかし心の奥にはうすら寒さも浮き上がる)、風俗に男が男ともだちや会社の仲間と行くことには寛容なのに、女である田房さんが自分の生業であるエロライターとしての見聞を男性たちに話すとどん引きされるとか(田房さんも彼らにどん引きしているのにそれを口にしていないのに)、テレビの深夜番組で、女への性暴力が男の娯楽に無邪気に転換され、男に消費されるというありさまに唖然とするとか、膝を打つ指摘は多々ある。AKB48に抱いた気味悪さが薄まったことを、「お母ちゃん」が「息子」のよく行く風俗店を突き止め、「少女凌辱系」かとびくびくしてたら、安定したナンバーワンのいる正統派な店で呆気にとられたという感じ、といったたとえも、わかるっ!と大いに頷く。
 優れたジェンダー論の書き手登場、これからも目が離せない。とりあえず、『母がしんどい』(中経出版)、『ママだって人間』(河出書房新社)もたて続けに読んだ。自分、親、夫との関係をより中心に見据えた前二著に比べて、本著は、第三者としての立場での語りだが、いずれも分析的で、批評精神に富む。驚くような親子関係(といえる私は幸運なのかもしれないが)をサバイバルした著者に、分析、批評、そして表現能力が備わっていたことに、ほっとする。これからもどんどん発信してほしい。(良)
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