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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
岡田憲治著『言葉が足りないとサルになる 現代ニッポンと言語力』亜紀書房 2010年

 軽妙な筆致にリードされ、ぐいぐい読める。「ウゼえ」、「チョーヤバくねえ?」、「微妙」といった幼児語で済まそうとする学生たちとのやりとりに頭を抱える第1章など、軽妙な筆致にのってぐいぐい読める。著者は、いっぱいの言葉を紡いでいこう、ただし幼児語」は使用禁止、なぜならば幼児語が蔓延すれば結局集団的催眠効果が生じ、思考停止状況に拍車がかかるから、という。「そうそう、今どきの若者の日本語の乱れは困る」と思うかもしれないが、それは勘違い。「政治家は清貧であってこそ」といった政治と道徳を安直に結びつけるような、怠惰な言葉も控えよう、ということなのだ。そして、難解で、高尚な言葉を操らねばならない、ということでもない。物事を安易な記号で大ざっぱに決めつけず、状況を見極め、変化を察し、そして主体的に判断し、その判断を懸命に言葉を駆使して他者に伝えていこう、ということだ。
 政治とは、言葉で世界を切り分けて「これが現実」と認識させる、人間の営み。とすれば、言葉足らずを放置しておくと、誰かにとって都合のよい「現実」の中に多様な現実が封じこまれてしまう。幼児語ばかり使っていると、現実をコントロールする者たちの解釈に封じ込まれてしまう。オーウェルの逆ユートピア小説『1984年』のように。
 本書が書かれた2010年よりも、現在(2016年)はさらに国家によって都合のいい「現実」の中に封じ込まれつつある気がしてならなくなり(「戦後レジームからの脱却」、「抑止力の強化」のための「集団的自衛権」、「大規模災害への対応」のための「緊急事態条項」etc.が脳裏をよぎる)、戦慄を覚える。発言すれば、バッシングを浴びかねない。ならば、君子危うきに近寄らず、「政治的な」主張は控えよう、と萎縮する傾向も一層顕著になってきているのではないか。
 本著は、誰かがまっとうなことを話し出すには、誰かが必ず賛同し指示してくれるはずだ、という「まともさへの信頼」が必要とも指摘する。その信頼感がなければ社会が成り立たなくなってしまう。怖じ気づいて誰もが語り出せなくなる。バッシングは、社会のベースとなる信頼感を喪失させる。
 しかし、萎縮していても、状況は良くなるはずがなく、むしろ逆ユートピアを招来しかねない。著者が言うとおり、政治が言葉で世界を切り分ける営みというところに立ち返り、こちらも言葉で何が現実かを詰めていけばいこうではないか。その解釈を言葉で示し、共有していけばいい。そして、合意を形成していこう。
 そして、「自分の利益を超えて私たちの利益を念頭に、言葉を発していこうという勇気を奮い起こしている少数の人々」は必ずいる。そんな勇気がなければ、その人々を応援する。諸般の事情でおおっぴらには応援できなくても、陰ながらでもその人々を孤立させない努力を淡々とする。特別な能力がなくても、それぞれができることはある、というくだりに、涙する。「いやあ私なんて」などと臆しているヒマがあったら、何かしらできることはある、と勇気づけられる。
 まさに、今読まれるべき希望の書。(良)
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