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岩宮恵子『思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』新潮文庫 2007年

 村上春樹が新作を出す、となると、書店はお祭り騒ぎである。長らく愛読している私でも、その人気ぶりに嫌気がさしてくる。でも、その人気ぶりに比例して、「軽薄な、取るに足らない作品だろ、どうせ」といった読まず嫌いも増えているようで、それも惜しいような気がする。なんとなく、都会的で、音楽や食事など、感覚的な部分に働きかけてくる描写がいい(或いは良くない)のだろうか。でも、そんな描写の反面、村上作品は、どうも、まがまがしい。危ういところに引き摺りこまれていくような苦しさがある。それでも読まずにいられない。読んでいて苦しくなる作品群がどうしてこんなに読者を獲得できるのか、むしろ、不思議だ。
 直感的にまがまがしさを感じ取っていたとはいえ、私の読みはその程度にとどまる。本書を読んで、私はちっとも村上春樹の作品を読めていなかったとわかった。臨床心理士の著者の読み込みは半端ではない。なんせ、著者は、村上春樹の新作が出るとすぐに購入し、ヘビーローテーションで毎日毎日3か月くらいの間、暇さえあれば読み返した上、文庫本になると、また本のとじ目がバラバラになるまで読み返し、また買い直す、という具合にディープに読んでいくというのだ(私は一度ささっと目を通すだけ…)!著者は、心理療法の現場で起こっていることそのもの、特に性や死の衝動にかられた思春期のクライエントの諸々の経験を、村上春樹の作品に見出す。治療現場で、かなりの数のクライエントが、村上の小説を話題にするという。そして、村上自身、小説を書くことは、自己治療的な行為である、と言及している。
 実際の心理療法の現場で起こっていることと、村上の作品で描かれていることは、重なっている。そのふたつで起こっている・描かれているプロセス、出来事を並行して書いていく。著者は、クライエントを教え導く、或いは村上作品の正しい解釈はこうだ、と評論する、といった、「上」の立場にいない。村上作品に出て来る、重いものを抱え・重いものに直面する登場人物は、クライエントと重ねられるだけではなく、著者など治療者にも重ねられる。たとえば、死に囚われているような課題を抱えているクライエントの治療が山場を迎えたとき、治療者自身、死の危険を感じることがある。それは、治療者が鍛えられていく体験であるとはいえ、クライエントからの暴言・静かな射るような目つきなどで、ダメージを受けることもある。象徴的なレベルでその死を引き受ける態度こそが、思春期の子どもを危険な死から遠ざけ、成長へと向かわせる力となる。治療者も、自分の中の硬直した物語の破壊をしっかり引き受けることこそが、クライエントの死の呪縛を変化させることになる。こういった関係性が、「ねじまき鳥クロニクル」に見いだせる、という。
 村上作品を読むことと同様に、本書を読む経験は苛酷であった。著者が連載中原稿の締め切りを超えるたびに、「自分が少しずつ違う人間になっているような気がした」というのは、決して大げさではない。思春期のクライエントたち、あるいは、村上作品の登場人物と同様に、こちら側と異界を往っては戻り、死と再生を体験していくことは、どんなに危うく、困難な体験だったろうか。しかし、だからこそ、きっと、苛酷な体験の只中・思春期にいる読者にとって、どれほど貴重な本になるだろう。ぼけーっとした鈍感な大人になり果てた私ですら、終始揺さぶられ、疲れ果てたが、本書を必要とする人にとっては尚更本書を読むことは苦しく、しかし大切な時間となるだろう。大人になり果てた茂木健一郎の解説(これはこれで誠実にまとめられているのだが)よりも、帯にある以下の小澤征良の紹介の方が、きっと多くの真摯な読者に響くのだろう。
 「私はこの本を何度も読んだ。ある時期の私にとってこの本は一筋の光だった。この本無くしては抜けられなかった暗い森があった。大切なことを教えてくれた宝ものだ。」(良)
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