判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
藤井忠俊著『国防婦人会 日の丸とカッポウ着』岩波新書 1985年

 戦時中の庶民の生活を描くテレビドラマや映画(実は年代的にずれていて不正確だとか。本書参照)には、かっぼう着にたすきがけ、日の丸の小旗を掲げて出征兵士を見送りに、帰還兵士を出迎えに繰り出す女性たちのイメージが定番。その「銃後を支える妻、母たち」の情景は、昭和7年にわずか40人で発足し、10年後に1000万にふくれあがった驚異の組織、国防婦人会のイメージだ。本書は、同会の細々した記録や関わった人々へのインタビューをもとに、同会のみならずその他の女性組織の実態を明らかにし、女性たちを大規模に動員した様相を描き出す。
 本書からは、女性の組織化のみならず、戦時下の庶民の経験の実相も浮かび上がる。冒頭で、1931年「満州事変」が勃発した際、最初の戦死者は、すべて仙台歩兵第4連隊の兵士で計29名、その半分は貧しい小作農からの徴集兵であった。「鉄砲の弾は貧乏人めがけてあたる」という風評がたったという。敗戦間近は、根こそぎ動員され、貧富も学歴も関係なく若者は死んでいった。しかし、15年戦争前半は、貧困な家庭ほど多く死ぬ傾向にあった。当然のことながら、弾丸が貧しい者を選んで命中するのではない。徴兵では貧困層からの徴集率が高く、それがそのまま前線に出るので、戦死者にも貧困家庭のものが多いということなのだ。文科省が2014年8月末、大学生らの経済支援に関する報告書をまとめたが、その過程で有識者会議メンバーである経済同友会専務理事は卒業後に就職できず、奨学金の返還に苦しむ人たちについて「防衛省でインターンシップ(就業体験)をさせたらどうか」と発言。若年貧困層に向けた「経済的徴兵制」に道を開くのではないかと報じられたこと(東京新聞2014年9月3日)を思い出す。格差拡大の経済政策が貧困層を自衛隊へ入隊させることにつながらないかという、最近見聞きする懸念も想起せざるを得ない。
 戦死者の遺族の悲しみは、戦争中も配慮されたとは言い難い。それどころか、その言動は「反軍思想」につながらないか懸念され、言動を細かく調査されていた。遺族は、盛大な市民の出迎えや慰霊祭を終えたあと、「立場をわきまえる」ようになった。国防婦人会の出迎え等は、遺族に「さぞ本人も本望でしょう」と戦争に適応させる装置のひとつとなった。
 もっとも、遺族には、「銃後の守り」に抽象化できない生活があった。たとえば、父が遺族として戦死した息子の扶助料を受けたいために息子の妻子を除籍しようと策謀するトラブルが相次いでいた。明治民法下の「家」制度を「日本伝統の家族」を称揚する一部の反知性主義的な言説があるが、「家」制度のもとであればうるわしい扶助などが実現していたわけではなく、むしろ舅の恣意的な横暴が許されてもいた。
 言葉を喪うのは、「粟まき」についての、岩手県の某村の国防婦人会長兼愛国婦人会会長の回想録での述懐だ。同会長は「粟まき」の深刻さと自身の無力さを書く。「粟まき」とは、舅が出生した息子の嫁を犯すことだ。言葉もつけられているくらい、現実に少なくなかった。村の若妻が泣きながら「会長さん。私なじょにすればよがすべ。お父さんのいうことをきかなければ、あの家におられながす」という。この問題だけは、「いやないやな思い出として、いつまでも消えそうにない。いや今にしてなお、怒りをおさえがたい思いに駆られるのである」と書く。地域の会長の無念さ、女性たちの悲嘆が胸に迫る。国防婦人会は、組織的に華々しい発展を遂げたが、その過程では、個々の女性たちの出会いがあり、女性の尊厳を損なう暴力に他の女性が気づき、憤ったり同情したりする場面もあったのだ。しかし、組織としては、個々の女性たちが被っている性暴力に、全く対応しなかった。個人としても、無力感にとらわれるばかりであった。このような性暴力を防止したい、被害者を救済したい、というシスターフッドを築いてほしかった、と思わずにはいられない。後知恵的だとわかってはいるが。
 国防婦人会(国婦)が予想しない拡大を続けていく過程に話を戻す。1932年大阪国防婦人会が発会した際、せいぜい40人程度であり、当時ありふれた献金活動のひとつであった。それが1934年には全国で100万人の組織になった。なぜか。著者は、まず、ほかの献金活動とは異なる国婦の特性をあげる。すなわち、台所から出て兵士の見送りや出迎えに行き、身体を使ってお世話する、という行動の特性だ。
 他に例をみない発展を遂げた要因にはほかにも様々考えられる。意図的、戦略的な要因もあれば、偶然性もある。たとえば、当初より、警察と憲兵隊に親しい後援者がいた。しかし、だからといって、最初から反動的な色彩の濃い団体であったのではない。あくまでも、思想的というよりも日常的な頚部や曹長と「兵隊ばあさん」たちとのつながりの中で、相談に乗ってもらう関係から築かれていくというのが、興味深い。もっとも、発展していく段階では、大阪でもまだまだ小さい組織なのに、東京に乗り込んだ際は、ハッタリをかまし、荒木陸軍大臣の妻に関東本部の本部長に就任してもらい、それをまた大阪にはねかえらせた(「お墨付き」を利用するしたたかさ)。「満州事変」を機にリベラルな志向から軍部批判を控え、極力軍部を支持することへ方向転換した(!)大阪朝日も国婦を好意的に取扱い、宣伝に力を貸した。在郷軍人婦人会が発展せず、国婦が異常に発展したのは、前者が在郷軍人家族に範囲を限定しがちであったこと、これに対して国婦は軍人と関係のない市民として軍事後援を始めたために、社会的なひろがりの契機があったこと、による。
 陸軍の意図が色濃い趣意と活動実態のずれも興味深い。国婦が会員募集のため配布した「本会の特色」には、「我国伝統の美俗たる家族主義に則り、まず我が家を整え…」云々、「我国伝統の婦徳を益々宣揚し、この婦徳を基にして…」、「温順かつ貞淑でしかも犯し難い強い正しい意志の下に…」云々と、軍の思想がよくあらわれている。しかし、当の女性たちは、「我が家を整え」「婦徳を基にして」「温順かつ貞淑」たらんとしてはいない。家庭をかえりみず社会的に活躍する意気で始めたのだし、実際に見送り出迎えには、「台所を守る」のではなく「台所を出る」必要があった。国婦は、その中心人物が一応陸軍の支援者と意気投合するようでいて、陸軍が鼓舞する、国家主義的・家族主義的な理念についても、とりたてて深い関心を示さないくらい無思想な集団であった。
 国婦が女性組織の実力ナンバーワン勢力にのしあがると、既存の女性組織との軋轢が顕在化していく。良識派の平和意識をもった婦人平和協会などは、「国際正義」を見つけ出すのが難しくなっていく日本軍の行動に、戸惑いつつ弁解がましく理屈っぽく正当化し、「転向」していくが、それでも広がることはなかった。そこまでの自己撞着はなく現実に適応していく女性組織でも、若干「理屈つき」では、「理屈なし」の国婦には抗しがたかった。平和を語ろうとするその時にも兵士はどんどん出征していく。まず見送ろうではないかという庶民の行動には打ち勝てないのだ。「理屈」からどうにも離れられない弁護士として、フェミニストとして、社会的に活動が広がりを持つことを願いつつも、「理屈から離れていいものか」と考え込んでしまう(だから広げられない…)。
 権利を主張することなく活動の場を広げる国婦を苦々しく思っている女性は当時もいた。市川房枝らの婦選同盟だ。しかし他方で、その活動の意図しない意義も理解していた。市川は自伝に、自分の時間を持ったことのない農村の女性たちが、半日家から解放されて講演を聴くことだけでも、女性の解放の側面があったと書いている。
 しかし、1934年ころから、国婦の活動により女性たちが家をあけることが多くなることが認識され、「家へ帰れ」という批判が強まっていく。そのため、婦徳の修養の側面が強調されるようになり、「街頭から台所へ」と押し戻される。陸軍の統制によるこの転回により、活動は相対的に低下する。一方、国婦よりも「上の階層の着飾った奥様たち」の活動と揶揄された愛国婦人会が逆に国婦のように分会するなど、国婦との「会員獲得競争」のために、国婦化していった、といのも興味深い。
 生活が戦争一色になる中、贅沢全廃運動などに真っ先に呼応し大政翼賛会に雪崩のように転換していく女性たちは、無思想な国婦よりも、婦人運動家たち。「アイシャドー、マニキュア、パーマネント禁止」といった監視がどうも大好きらしい、という著者の皮肉は、心に刻んでおく。理屈は強い旧市民運動家は熱心に監視行動を行い、指導者然として発言し、女性団体のヘゲモニーをとることに成功する一方、無思想であるがゆえ戦争推進の先兵となった国婦は解体していく。階層を無化するものだった国婦のカッポウ着姿すら非活動的と批判され、「消火活動」の主役にふさわしいモンペ姿へ移行。その移行は国婦の役割の終焉の象徴でもあった。隣組が組織される中、組長は名簿上男でも実際は妻がその務めを果たし、女性の役割は画期的な転回をした。防空演習のほか配給の末端を担った隣組が成立すると、国婦や愛婦の女性たちではなく、旧市民的婦人活動家たちが指導層に入り込んだ。
 女性組織を統合して(その過程では国婦等も抵抗したが)1942年に発足した大日本婦人会は、隣組を主要活動範囲とし、家を基盤にして精神主義を強調した。軍事動員の秘密主義のため、既に見送りは禁止になっていた。女性たちは家に戻り、戦費確保のための貯蓄割当に協力し、空き地を見つけては畑をつくり食料自給を図り、母として自分の子に「おかみの子」であるとの観念を植え付けるよう「婦人の覚悟」を求められる。当初陸軍が国婦に期待したものが現実に求められることになったのである。監視の場と化した隣組にはかつての女性たちの活力はなかった。そして、皮肉なことに、1000万人に及ぶ男性の軍事動員により、家族構成は崩れる。『家』は称揚される一方、解体されていった。
 国家が女性に求めるものを受け入れるようでいながら、無思想のまま、女性が主体的に活躍する余地はある。しかし、その矛盾と葛藤が顕在化していき、戦争が進展し余裕がなくなると、その矛盾は許されなくなり、女性たちの活動は制限され、監視され、国策に協力させられ、自分の子どもたちも進んで差し出すよう強いられる。発展する無思想のエネルギーをうらやましいと思う反面、無思想の行き着く先を思う。しかしむしろ最終的に国策に協力して監視と教化の先頭に立ったのが、理屈をもっていたはずの女性活動家たちだったというのも、心にとどめたい。どこにでも、陥穽がある。
 「女性の活躍」が喧伝される中、派遣労働法改悪への動きが性急である上、選択的夫婦別姓など「女性の活躍」を後押しするはずの民法改正は放置されたままだ。「こっちこそ真の女性の活躍を目指す運動だ!」と細々と民法改正運動を進めながら、官制の華々しい女性の「運動」に眉をひそめつつ、資金面やら広がりやらがうらやましくもある。したたかに、注意深く。シスターフッドからの女性たちの本当の助け合い、運動を繰り広げたい。本書から、うっすらとヒントを得られたような気がする。(良)
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK