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伊波園子著『ひめゆりの沖縄戦 少女は嵐のなかを生きた』岩波ジュニア新書 1992年

 ひめゆり平和祈念資料館を訪れたことがある。衛生環境等劣悪な壕で何人もの人間がたてこもって終わりのわからない戦争に耐えていたのか、ちょっと前まで英米小説を朗読し恋に憧れもしただろう女学校生が動員され、医師でも看護師でもないのに顎がとんだり蛆虫がわいた傷口の処置をさせられたりしたのか(負傷した兵士たちも市井の人たちだったはずだ)。ほんの1年前の写真(本書にもおさめられた写真)ではまだ笑顔をみせていた女学生たち。その後の写真では表情がなくなっていくのが印象的だった。そして、ついに写真どころではなくなる。この笑顔の女学生たちの後の経験を想い、胸がいっぱいになる。
 ジュニア新書ということもあり、凄惨さを薄めているのだろう。あるいは、語るのが辛い面もあるかもしれない。しかし、それでも、女学生まで犠牲にした戦争の愚かさをまざまざと伝えてくれる。「ひめゆり」は、無垢な女学生たちが献身的に尽くし自己の命まで犠牲にした、といったイメージに堕ちがちである。そのような祭り上げられ方は、何によって追い詰められたのかという原因、責任から目をそらすもので、女学生たちを追い詰めた当時の精神論と同様の悪質さがある。本書は要所要所で、コラムを設け、軍隊が住民の命を守らないどころか巻き込んだこと、沖縄戦が国体護持のため時間稼ぎとの捨石作戦であったこと、降伏が先送りされ住民の犠牲が増えたこと、皇民化教育の害等についても触れることにより、読者が感傷に浸るだけに留まらないように配慮されている。
 皇国民として教育されてはいても、1945年3月にはまだ女学生たちに冷静な判断力もあった。「沖縄が戦場になったとき、残って学校と運命をともにするか。それとも自宅へ帰るか。」「御真影のもと300の職員生徒が倒れていたという話はなんと美しい話ではないか。それにひきかえ、御真影のもとには校長以下、部下職員ただ一人だったというのはなんとみじめな話だろう」とうっとり述べる指導主事に対して、ひとりひとり呼ばれた師範の全員が「家に帰る」と言ったという。ただしょげる指導主事に対し、「空襲が始まると兵隊だって一歩も壕外へ出られない。空襲がやんだ後、片づけをするのがせきのやまなのだ。片づけなら自宅からかけつけても遅くはない」と、著者らも拒否し、平行線。直前でもまだそんな現実的な話も出来たのだ。しかし、延期された卒業式を待っているうちに米軍による沖縄戦上陸船が始まってしまい、帰れなくなってしまう。そうなると、「傷兵への看護という尊い使命感が私たちに親元へ帰る決心をひるがえさせたのでした」とあるが、非常事態のある種の高揚感もあるだろうが、周りが残っているのに帰ると言い出せなくなったという同調圧力のため、あるいは不安や疲労感で消耗して何も考えられなくなったということもあるのではないか。
 実際、極度の不安と疲れでどこでどのように行動したかほとんど記憶がない、という箇所も随所にある。異常事態で苦痛を忘れるため防衛機制が働いていたということかもしれない。
 「尊い使命感」とはいっても、重傷者を放置して移動する際に「移動のことは一言ももらしてはいけない。患者に気づかれないようにせよ」と命じられ、不気味な沈黙に事態を察した患者から「学生さん、ぼくたちを捨てていくんじゃないだろうね」と責められて、ごまかしたり、衛生材料が少なくなったからほかの部隊のひとは治療するなと軍医に指示を受ける等、様々な苛酷な現実に直面もした。
 法律的な根拠もなく地上戦のただなかで作業をさせられたひめゆりの女学生たちは、何の報酬も与えられないどころか、安全も生命の維持のための食料すら確保されない。食事も自分たちで調達しろと、照明弾や艦砲におびえながら畑で出かけ、砲弾を浴びることもあった。それでも芋も何も見つからないことすらあった。
 命からがら逃げて集合できた壕で、唐突に学徒動員の解散を告げられる。戦場のただなかで、「これからは自由行動」といわれても。全く無責任としかいいようがない。
 解散となって歩いていた際に、著者は、女性から、「2歳の子どもをどこに捨てたらいいか」とたずねられる。「あんまり泣くんで、じゃまになるから、殺してしまえと兵隊さんにしかられるんです」。兵たちの罵言に憔悴して祖母とも母親ともつかぬようになった女性に著者は同情し、「とんでもない、このへんであやして、寝かしつけてからつれていらっしゃいよ。捨てるなんてとんでもない」と落ち着かせた。著者に出会うことがなく追い詰められた母親たちは、どうしただろうかと胸が詰まる。著者は、後日、兵隊の手によって窒息死させられたり、岩に頭をぶつけられたりして死んでいった赤ちゃんたちがいたことを、目撃者からきいたという。戦争により追い詰められた兵隊たちにより、さらに弱者が追い詰められた。人の尊厳に全く価値が置かれなくなる状況が現出していたのだ。
 小銃の音がじりじりと近づいていく中、「今晩海に入りて自決せん」という紙切れが回ってくる。それだけが唯一の道なのか。少女が自決、美しい話にちがいない。美しい話のみが真実だろうか、と悩むゆとりがまだ著者には残されていた。しかし、いよいよ間近というとき、そばにいた中尉に8人一緒に斬ってくれと頼む。中尉からは「せいぜい3人までだ」と断られる。誰もが正常な判断が出来なくなっていたことがよくわかる。寸でのところで、信頼している先生の助言を得る。その先生は、「各自の意思にまかせることだ」と助言してくれた(そう助言する教師だけではなかった。この点も幸運だった)。もうそのときには著者にとっても自決はこわいことではなく、息詰まるような不安から永遠の平和に逃れることであった。しかしまだ天命を待とうという気力も残されていた。負傷して米兵につかまり、親切に治療を受けることができた。米兵たちが人々の世話を焼き、泣く子どもに菓子をあげてなだめていた。「ふしぎな光景」にただとまどう著者が、命を落とした友人たちの一人にならなかったのは、偶然のことであった。著者らがつかまったすぐそばの岩穴では、教師と女学生9人が手りゅう弾自決を果たした。
 戦後、著者は、母からしきりに亡くなった友の家を訪れてお焼香してくるように言われたが、どうしてもできなかったという。しかし一年後、意を決して、亡くなった友人たちの家を訪れることとした。その母たちから「まだ戦争が終わったことを知らずにかくれている人たちがいることだから、うちの○ちゃんだってきっとどこかの壕にかくれているにちがいないよね!」と言われてしまう。家族の死に目に会っていない、死んだ場所すらしらない、それであきらめろといわれてもあきらめられない。ひめゆりの女生徒の親たちだけではなく、兵士や爆撃で殺された住民たちの家族もそうであったろう。「なぜあなたは生き残ったのか」と詰め寄られることもあった。犠牲を強いられた者同士の間で、悲しみが恨みに転化するのは悲しい。
 ひめゆりの生存者たちは、国家から苛酷な仕打ちを受けたかと恨むよりも、サバイバーズギルトを抱かざるを得なかったようだ。ひとりひとりが葛藤を抱き苦しみ続けるのではなく、それぞれの体験を客観視し、共有し、伝えていく機会を得たい。その願いは、ひめゆり平和祈念資料館の設立に結実した。
 戦後70年となる今年、自民党の議員が、安保関連法案に反対するデモをする学生たちについて、「戦争に行きたくないのは自己中で利己的個人主義」と批判したことが話題になった。「国のため」の戦いに身を投じさせられ、生命すら犠牲にさせられた人々がいたことを反省するどころか、「美談」にして、それこそ模範にしろということだろうか。ひめゆりの犠牲者も生存者もその経験を「美談」とすることは望まないはずだ。彼女たちの経験を、自己犠牲を強いる誤った教育や報道のもと、人間が尊厳を喪っていく過程の教訓として、私たちは受け止めなければならない。与党議員からこのような発言がなされる現状で、ますます本書は読まれる価値があるということだ(残念な時代というべきだろう)。(良)
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