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アイリス・マリオン・ヤング著 岡野八代・池田直子訳『正義への責任』岩波書店 2014年

 世界には、貧困など、深刻な構造的問題が多々ある。構造的不正義は、ある特定の個人や組織に責任を追及しにくい。多様で、大規模で、相当のタイムスパンのある要因が引き起こす構造的不正義。たとえば、様々な政策、通常のルール、許容された習慣に従って行動する多数の個人の行為が、あるシングルマザーをホームレスに追いやる。しかし、その過程にかかわる誰か特定の個人を非難しにくい。そしてときに、構造的不正義は国家の単位でおさまらず、グローバルなものであることもある。グローバルな、長期にわたる、膨大な、深刻な、構造的不正の責任を問われたら…?途方に暮れてしまう。様々な否認が起こる。私は何か行為できる立場にない、関係ない…。「私は白人だが、奴隷制の終わった後に移民した子孫だ。黒人の貧困に責任あると言われてもね?」など。戦争責任について、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と言い放った自民党の政治家のことを思い出す。それは違うだろう、そういうことでなくて…と続けたいところ、言い淀んでいた。本著を読んで、もう言い淀まないで、「私も、そしてあなたも、正義への責任があり、それを果たすべきだ」と言える。ヤングは、毅然としたリアリズムで、たくさんの具体例に言及しながら、私たちがそれぞれの地点で、とるべき行動を考え始めるときであり、なにが期待でき、どのような期待が理にかなっているかという問いに向き合うよう誘ってくれる。
 私は法律家として、過失や非難、すなわち個人に帰される「責任の帰責モデル」の思考に慣れている。このモデルは、故意や過失で結果を生じさせた行為者を見つけられなければ、責任を問えない、という限界がある。仮に見つけられたとしても、そのような「犯人捜し」は、実際には不正の現出に様々なコミットをしている他の個人や組織に、自分たちの関わりを変える必要がないと思い込ませてしまう。それでは、必要な責任を課すことに不適切であり、変化は望めない。ヤングが呼ぶ「責任の社会的なつながりモデル」は、社会の構成員はみな自分たちの行為によって構造的不正義の生産と再生産に関与しているという事実のために、その不正義を是正しなければならないという、分有されるべき責任である。この責任モデルは、後ろ向きに罪や過失を問うのではなく、未来に向け、変革のための集団的行動を組織化するという政治的責任を要請する。
 ヤングは、比較的短期間で一定の成功をおさめた反苦汗工場運動という具体例をあげてくれる。反苦汗工場運動の活動家は、大量に服を購入する役所や、名前やロゴをつけた服を売る大学等に、こうした衣類を生産する工場での過酷な労働条件に責任をとるよう要請した。彼らは、GAPやナイキ、ディズニー等のブランドアパレル店や、ウオルマートといった小売店前で、これらの衣類が苦汗工場で製造されていることを説明するリーフレットを配布した。これらのアパレルや小売業者は、製造工場の労働者と契約しているものではなく、法的には何らその労働条件に責任がない。直接的な責任は、工場の経営者たちが負う。しかし、多くの人々が、国境を越えても、アパレル産業は工場の劣悪な労働条件を改善するための責任を分有すべきだと感じた。これらの企業は、消費者の抱くイメージに敏感であり、契約の際に行動規範を設けることにしたり、監視活動に取り組む企業も現れた。一消費者であっても、フェアトレードに関心があることを示すことができるし、労働条件に直接の責任を負わないアパレル業者であっても、労働条件の改善に影響を及ぼすことができる。不正義を生み出す構造上のプロセスに加担したすべての行為主体は、不正義を軽減するための責任を分有すべきであり、できる、という具体例は、刺激的である。
 日常生活において、私たちはなかなか広範な社会的見地をとることが難しい。しかし、直接出会うことのない他者に与える危害を軽減するためには、まずは私たちの行為が集合した結果を考えるべきなのだ。構造的に特権的な人々は、その立場を維持することに寄与してしまいがちである。まずはその点を直視しよう。それにしても、私たちは、比較的特権的な立場にある個人と応対すると、抵抗の意思が萎えてしまいかねない。たとえば、「会社の最高顧問が、ストライキ中の労働者に話しかける」「土地整備企画部長が、立ち退きを迫られる住民たちの会合にやってくる」。彼らは、思いやりがあり、ユーモアがあり、自分たちの話に耳を傾けてくれる、「いいひと」なのだ。構造的不正義の特権的な人々に対し、「敵」「不正義を犯す行為者」として非人間化した攻撃を続けるのは難しい。しかし、対面すると魅力的で尊敬できる人というのと、構造上の危害において果たしている役割は、別であると認識し、追及したり批判したりするのを控えてはならないのだ。必要な追及や批判とは、互いに説明責任を果たすということであって、悪意を向けたり、傷つけたりするのとは違う。ここのあたりで、原発を想起せざるを得ない(いや、この問題は、責任の帰責モデルの適用が妥当な問題でもあるのだが)。「原子力ムラ」と非人間化し揶揄しているだけでは、不正義を少しでもなくしていく組織化や行動に向かうプロジェクトに取り組めないような気がしならない。ここでも、ヤングからヒントを得た気がする。
 さらに、ヤングは、過去遡及的なルサンチマン、抑圧者と被抑圧者という怒り、傷への固執に嵌まり込むなというフランツ・ファノンの呼びかけを正当としつつ(歴史をかえりみないこの国にいるとついこの箇所に慌てるが)、わたしたちが歴史的な不正義と向き合わないのであれば、加害者たちの不正を繰り返す運命にある、ともいう。また、個々の被害者や加害者がまだ存命中の場合、責任の帰責モデルを適用することも(表面上は)妥当だともいう。ここまで読み進めてほっとする。しかし、特に被害者と加害者が何世代も前に生きていた歴史的不正義の場合は困難である。もっとも、社会の構成員たちが現在の構造的不正義(たとえば、奴隷制の遺産、アメリカインディアンに対する抑圧…ヤングは本著で後者についての考察を書き込めないまま逝ってしまった)に対してどのように向き合うか、という点において、歴史は問題になる。現在の構造的不正義が過去の不正義に根ざしたものであるという認識は、現在の不正義を改善するために何が効果的なのか、等を議論することにつながっていく。
 研究書を読んで泣くことは通常ない。しかし、本著を読んでいる間、始終揺さぶられ、涙を流した。私は責任がある。しかし、途方に暮れることはない。そうではなく、責任を分有しているということは、未来志向的に、責任の一端をとることにコミットできるということでもあるのだから。私たちが持っているエネルギーは限られているが、それにもかかわらず、過去を否認し、追及されると憤る、そんなことに消耗したくはない。いかに構造的不正義を是正していくか、そこに持てるエネルギーを注ぎたい。本著は「慰安婦」問題に対する「解決」とはなにを意味するかを再考する貴重な理論的枠組みを与えてくれるとの「訳者あとがき」も、示唆に富む。
 本著は、ヤングの遺作であり、この草稿の推敲にさらに十分な時間をかけようと考えていたという。「講釈然とした学者的なものいいも極力なくそうとしたはず」と夫の謝辞には記されている。しかし、「社会的なつながりのモデル」という新しい責任モデルについて、何度も何度も丁寧な説明がなされ、十分噛み砕かれ、わかりやすい。残り少ない人生の全てで、自身の深い洞察が、多くの人に届き、分有する責任をとるべきだと認識してもらいたいというヤングの強い願いをひしひしと感じる。翻訳もとても読みやすい。ヤングの願いがかなうことを祈るし、私も行動したい。(良)
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