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非配偶者間人工授精で生まれた人の自助グル―プ・長沖暁子『AIDで生まれるということ 精子提供で生まれた子どもたちの声』萬書房 2014年

 法律家として、非配偶者間人工授精(AID)など生殖補助医療を論じるとき、「親子関係の規律云々」といったことで頭がいっぱいになる。生まれた子どものことを思い浮かべても、親子関係の確定や「出自を知る権利」どまり。AIDで生まれたことで、孤独に悩み、苦しみ続けている人たちのリアリティには、一般の人と同様、ほとんど注意していなかった。本著は、AIDで生まれた子どもたちが、知ったときの苦しい感情、様々な不安、家族との葛藤を曝け出し、彼女たち彼らの痛みに鈍感な一方技術を発展させて利用しているこの社会に、生殖補助医療について考えるきっかけを与えてくれる、貴重な一冊である。
 第1部の手記、第2部の座談会で、合計6人が体験を語るが、物心ついたときに既にAIDで生まれたことを教えられた人はいない。不妊は長い間タブー視され、殊にAIDは隠されるべきものと扱われてきた。長い間隠されていた事実を、父の遺伝性疾患のへの遺伝の可能性を疑ったこと、遺伝子検査、別居中だった父母が離婚する際、父が入院し血液型が合わないことなどなどをきっかけに、突然知らされた。成人になるまで父と母の性の営みから生まれてきたと信じて疑っていなかった世界が、がらがらと崩れていった実感を、それぞれが語る。何十年も騙されてきたことで、親子の信頼関係も崩れてしまう。それから関係を修復していくのに、皆が困難を抱えている。親たちは、子どもたちの苦しみを受けとめることが出来ず、それでも生まれてきたほうが良かったではないか、知ろうとさえしなければ良かった、とむしろ非難さえする。子どもたちは、それを親のエゴと感じ怒りを抱くが、老いた親に怒りをぶつけるのは酷だということもわかって、抑えこむ。そこで、葛藤を消化できず、距離を置くことで、やり過ごす。親子が円満な関係を保っている人は一人もいないのは、悲しい。
 もともと親子関係が希薄だった、告げられて腑に落ちた、という人も少なくない。「子どものために」と当の子どもの意見はきかれないまま秘密にしておくほうがいいとされてきたが、子どもは敏感で、家族の中に隠しごとや緊張感があることに、気づいている。
 隠さなくてはいけない技術で生まれた自分自身を、生まれてくるべきではない否定的な存在だったかのように思えてしまう。「子どもがほしい」と強く望む母に父が不本意ながら応じたり、「家長に跡取りがいないのも世間体が悪い」と父が決めて母が従ったり、と、父母の合意ではないらしいということにも、子どもは不幸を感じる。
 精子提供者について何ら情報がない人が5人。精子提供者に何かしてほしいわけではないが、誰なのか知りたい。モノでなく、人間から生まれたことを知りたい。誰ということも知ることができないことによる、得体の知れない気持ち。自分の半分はどこから来たのだろう、男女の愛情からではなく、モノから生まれたような気持がする…。親と修復できないまま、自分の存在そのものを否定的にしかとらえられず、苦悩する。そんな当事者に、周囲の大方は、「過去にこだわらず、もっと前向きに生きるべきだ」「親に悪いと思わないのか」と無神経で残酷な反応をする。子どもから(子どもも親の苦悩を始終見てつらいのだろうが)、「悲劇のヒロインぶるんじゃない」と言われてしまった当事者もいる。なんという孤独。
 精子提供者が親戚の男性という人が一人。男性の妻が反対したので、その妻に内緒で行われた。母はこのことを墓まで持っていく秘密のつもりだった。子どもは、自分のせいではないのに、断ったにもかかわらず内緒で裏切られていた提供者の妻を常に傷つけている気がして、「自分なんかが生れてきてしまって申し訳ない」という思いが心の中で重石のようにあり続ける。親戚づきあいが辛くなり、疎遠となった。
 当事者たちは、血がつながっていなければ親子ではないと言っているのではない。むしろ、養子で良かったのではないか、という。養子は子どもたちのための発想だが、AIDは親の気持ちのみが尊重されている、との指摘がある。当事者のHPは、当事者と不妊に悩む親とのやりとりで、頻繁に炎上してしまうことがあったとか。お互い、傷つけあいたいわけではないのに。まるで生殖補助医療を利用した親と子の間の不幸な葛藤が展開されるかのようで、胸が痛む。
 では、出自を知る権利が認められたらいいのか。そうではない、やはり「つくられた、不思議な生物」という違和感はぬぐえず、悲しい。イヤだ、やめてほしい、と当事者たちは口々に言う。法律家は、出自を知る権利を認めよ(→そうであれば問題解決)と言いがちだが、これまた当事者の苦しみに鈍感であったと思い知らされる。
 当事者たちによる第1部、第2部で、さらには研究者による第3部で、何が必要かが語られる。当事者たちは、AIDに不信感を抱き、実施されるのをやめるよう言う。そうはいっても、実施はとまらないだろう。そうであれば、せめて、親が自分の選択に自信を持てるシステムをつくる、出自を知る権利を行使できるシステムをつくる、AIDで生まれた人をサポートするシステムをつくる、精子提供者をサポートするシステムをつくる、当事者の声を聴けるシステムをつくる、情報を開示するシステムをつくる、そして法律や制度も整備される必要がある、等の課題がまとめられている。これらについて社会的合意がないまま、実施が進められていると、本著で当事者たちが直面した問題がそのまま繰り返されることになる、と。
 第3部の終わり近く、そもそも社会の中に浸透した家族のイメージのままでいいのかと問題提起される。子どもがいてこそ家族?なぜ子どものいない人生ではいけないのか。なぜ養子ではいけないのか、なぜ他の人の産んだ子どもたちと交流することではいけないのか。家族という理念にがんじがらめになって、かえって不幸になっているのではないか。そのことを問い直さないと、本質的な解決はできない、と。「幸せになるべく家族をつくったはずなのに、なぜ生まれてきた子どもたちがこれほど辛いのでしょう。」AIDで生まれた子どもの苦悩は、医療の在り方、不妊への視線、血縁主義など、この社会が抱える矛盾が追い詰めてのことではないか。そのことを直視すれば、個々の家族、個人に解決を求めるのではなく、社会で解決の道を探るべきことがわかる。まずは、当事者の話を聞くことから始めるべきなのだ。(良)
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