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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
森まゆみ著『青鞜の冒険―女が集まって雑誌をつくるということ』平凡社 2013年

 「青鞜って教科書に載っていたっけ。今更なあ。」と気が乗らないままに、ご近所(文京区、台東区)の達人の森まゆみさんの筆によれば、ご近所トリビアなお話が満載かな?というくらいの気持ちで読み始めた。これが意外なことに実に面白い!一気に読み切った。
 副題「女が集まって雑誌をつくるということ」がまさにテーマである。細々したトリビアな話も面白いが、なんといっても、明治から大正にかけての「青鞜」、そして、昭和から平成にかけての「谷根千」の編集に関わった女性たちの、雑誌にかけた思い、苦労、奮戦ぶりに、切なく、熱くなる。
 さすが、同じく雑誌を編集した経験をもつ森だけあって、平塚らが甘くたるんでいたところについて細々と手厳しい。そもそも、青鞜社の設立自体、平塚にとっては、生田長江に勧められた結果であり、「自発的なものではまったくなく」「どこか本気になれない気分」だったという。歴史的な雑誌の創刊者がこんな腰の引けた弁をするとは。母、妻である森ら3人の「谷根千」にかけた意気込みは全く違う。「谷根千」のスタートは、印刷費用等初期費用のねん出が一番大変であった。平塚はその点全然心配しなかった。母が平塚の結婚費用のために貯めていたものを出してくれたのだから。雑誌出版には欠かせない広告取り。広告集めに苦労した森は、青鞜の広告を眺めているだけでも時がたつという。確かに、広告の一つ一つ、森の解説付きだと、時代の気分を感じ取れ、興味深い。が、当の平塚は自伝でほとんど広告に触れていない。読者からの熱烈な手紙が届いたというのに、その記録も残していない。森は、平塚が「内面的なこと」しか語らず実務的な記録を残さなかったことを嘆く。青鞜には、当時一部に揶揄されたように「お嬢さん芸で話にならない」という面がまさにあったといえようか。
 広告取り以外にも、購読料の授受、発送、配達、印刷所とのやりとり、印刷時の立会い。森によれば、このような雑務こそ、雑誌の枢要、読者や支援者、出版関係者と編集者を結ぶ大事な作業だという。このような作業のひとつひとつが、共感を広め深める強みだと。ところが、青鞜は、途中で出版販売を他へ任せる。一見、執筆や編集に集中できるようにみえて、雑誌の運動力を弱めてしまった。
 雑誌の運動力。客が押し寄せ、自然保護や建物保存の会合が毎晩事務所で開かれ、たくさんの郵便物が舞い込み、電話もひっきりなしに来る中、森はほかの2人の仲間と共に、「谷根千」を発刊し続けた。給料をもらっている文京区や台東区の職員までが、「谷根千に訊けばわかるでしょう」と安易に電話を回してくるのには、怒りを覚えたという。そういったことが大事ではあっても、疲れることなのだ。惜しまれつつも、「谷根千」にピリオドを打った森らの苦労もよくわかった。バブルで地上げ屋が入り始めたことから、開けっぴろげで人を疑わなかった町の人が、疑心暗鬼になって取材がしにくくなった。個人情報保護法により、街並みを写真に撮ったり、そこに映った人を載せたりすることに、警戒心をもたれるようになったという。
 森らは相談して周到に「谷根千」を止め、その後もバックナンバーの注文を受け、膨大な書籍、資料等を整理保存してきた。他方、青鞜はその面でも行き当たりばったりだ。平塚は、伊藤野枝に青鞜を任せて、自分は、心の世界へ、自然の中へと逃避してしまう。そして、野枝が、1年後、青鞜、そして夫と子らから離れて大杉のもとへ奔ることで、資料等の保存すらできていない。
 青鞜は内容自体にも難がある。翻訳者が明記されていなかったり、全訳でなく適当につまみ食いであったり、自分の思い込み炸裂といった下手な論稿、小説の類が多々あったり。編集後記は活き活きしているが、無防備な内輪ネタのオンパレードには、現代の自己満足のブログを読まされているような観がある。創刊号の平塚の「原始、女性は太陽であった」、与謝野晶子の「山の動く日来る」は、ジェンダー研究を経た現在ではツッコミどころ盛りだくさんでも、当時の女性たちを奮い立たせる力があったとは思う。しかし、そのほかの論稿や随筆はこんなにもお粗末だったとは。
 それにしても、平塚の毒舌には辟易する。その平塚に対する森の容赦ない批判には共感できる。たとえば、平塚は、一葉には思想がないといい、「彼女はそれだけの教育を受けた女ではなかった」などというとき、自身が嫌ったはずの「上からの教育」「学歴主義」の罠にはまってしまったのではないか。一葉は上野の東京図書館の書物を読み破り、社会について考え抜いた、セルフラーニングのひとだったというのに。一葉以外の人物にも、容貌を含めて冷ややかで尊敬もなく書き綴っている平塚には、とても共感できない。そして、妊娠するや、「全く無自覚な無智な劣等な女からしかも愛なき結合から生まれた」多数の子より、自分の子は「優れた、幸福な」子になるに相違ないと書くことに、唖然とする。このような選良主義にすでに、後に戦争時に国家に利用された優生思想が垣間見られる。
 もちろん、平塚らがまだ20代、あるいは10代での挑戦だったこと、明治大正という時代に決して好意的ではない好奇のまなざしにさらされながらも挑戦したことには、敬意を抱く。生きざまも尊敬する。年下の画学生と、籍を入れず親からも認められないまま共同生活を開始した平塚は、非難されても、「2人の愛情を国家に認めてもらう必要はない、親の家からやっと抜け出したのに別の家に縛られるなんて考えられない、自分の家の姓は捨てたくない」と譲らなかったという(おお!夫婦別姓をこのころに実践したとは!)。当時結婚にこれほど自覚的であることは、現代の比ではない非難を受けたことであろう。
 いろいろな人の魅力的な一面、意外な一面が披露される(人だけでなく、学校や岩波書店など出版社の過去の一面も細々面白い)。たとえば、東京女子師範(現お茶の水女子大学)を出て母校で訓導していた、すなわち当時最高の教育を受けていた安井てつは、二つ年下でさしたる教育を受けていない一葉の実力を認めて、古典を習った(平塚とは違う)。こだわりのない安井は、一葉から「常に口重に世辞など数々なき人」と誠実で不言実行の人として評価されていた。後に東京女子大学の二代目学長になり、戦時中「赤化」として投獄された学生を排除せず、監獄まで差し入れにいった。辛辣な平塚からも、尊敬されていた。
 平塚の母光沢も興味深い。心中未遂事件を起こした娘を黙って迎えにいき、肺結核の娘の友人を居候させ、「お父さんは承知なさるまいけど」といいながら青鞜の最初の印刷費用100円を出した。26歳(当時は相当な年齢)でいながら結婚する気もない娘とその友人の交通費、昼食代なども何かと出した。事実婚を始めた娘に、蚊帳を持っていくなどした(貧乏生活で蚊に喰われるばかりだった平塚も涙したことだろう)。当時の女性としてはかなり理解のある人物である。
 非難に折れず、困難に負けなかった女性たち。平塚だけ、森だけではなく、多くの女性たちの生きざまに、目頭が熱くなる。当時よりは女性の活躍に対するバッシングは弱まった(と信じたい)現代にいる私も、へこたれてなるか!という気持ちになった。(良)
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