判例 女友だち 映画ウォーキング 情報BOX わがまま読書 リンク おたより欄
わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
藤山直樹『落語の国の精神分析』みすず書房 2012年

 精神分析というと、19世紀西欧で生まれた何やら時代的にも地域的にも限定された学問に根ざしたもので、無意識だの性器愛だの学問的なようでいて露骨な言葉を駆使する、理解不能なもののようなイメージを持っていた。一方、フロイトも誰も知らない、与太郎、若旦那、粗忽ものなど、落語の国の主人公たちのことは、気軽に笑ったり腑に落ちたりほっこりしたりする。精神分析というアプローチと彼らがどう関係するのか?不思議な気持ちで読みはじめたが、これが実に面白い。
 著者は、日本で30人ほどしかいない精神分析家の一人。その上、年2回素人落語会で自ら落語を演ずるほどの落語好き。一見あまりに異質な落語と精神分析は、実は本質的な重なりとつながりがある、と著者は確信し、落語の根多にみられる人間観と物語の力を解き明かすとともに、一人語りの孤独なパフォーミングアートを実践する落語家のありかた、そして、落語家と同様孤独な実践を続ける精神分析家のありかたをも考察する。
 著者が誰より魅力を感じている落語家である立川談志(最終章は、立川談志論である)は、「落語は人間の業の肯定である」と言ったという。現役の落語家がこれほど落語の本質を射抜く言葉を発したことは、空前絶後のような気がする、と著者はいう。落語は人間の不毛性、反復性、「どうしようもなさ」をまざまざと具現し、不毛で反復的な人間存在をいとおしみ、愛情をこめて笑うパフォーミングアートである、と。そうすると、アルコール依存からの回復が語られる人情噺「芝浜」は、落語らしくない。「紋切り型の美談」に嵌りやすい生得の傾向を持っている人間は、落語らしくなかろうと、プロットの力で泣いてしまう。しかし、絵空事ではしらける。人間が反復強迫的で変わらない存在だと暗黙のうちに知っている観客にも、なるほどと納得できるものでなければならない。納得のいくドラマを、ここでも談志は考え抜いた。女房が主体的にひっぱっていくのではなく、亭主の心的体験都内省を描き出した談志バージョンには呻る。
 有名な根多をもとにしたこのような人間存在の分析の合間合間に挿入される日本の精神医療への手厳しい批判(「鬱病は心の風邪」といった想像力の欠如した無知蒙昧なことを口走る輩が同業者に出てきたことから、抗うつ薬がどんどん売れ、製薬会社は儲かっているが、自殺は減らないことに、精神科臨床の矛盾があらわれている、など)も興味深い。
 「よかちょろ」を取り上げた章の冒頭には笑った。「どうして精神科医になったんですか」とよく問われるが、「ここで胸を張って『こころを病んだ人に寄り添って、力を貸したいと思ったから』なんて、瞳に星を浮かべて言えればいいのだが、正直者なのでとてもそんなことは言えない」、そして著者より「輪にかけて筋金入りの正直者」であるフロイトは、同じ問いに対して、「子どもの頃を考えてみると、悩める人を助けたい欲求の記憶はまったくない。私のサディスティックな素質はそれほどではなく、したがってサディスティックな素質の派生物である、悩める人を助けたいという欲求も発達するべくもなかった」と書いているとか。人を助けたい人間は本来すごくサディスティックな人間で、人を助けたい気持ちはその裏返しに過ぎない、とフロイトは言い放ったわけである!著者は、「人を助けたい皆さん、ごめんなさい。フロイトはそういう奴なんて許してやってください」と続けるも、目から鱗とはこのこと。弁護士ってそういう人多いかも…なんて同業者を笑っている場合ではない、そうだ、私こそ、瞳に星を浮かべて「人を助けたい」と弁護士として遮二無二仕事をしている…。フロイト、恐るべし!と慄いた。
 あとがきに、「落語が好きな人にも精神分析に関心がある人にも、この本を取ってもらいたいと思う。落語の持つ人間の自然への深いまなざし、そして精神分析という独特な人間の捉え方、そういうものがいくばくかでも読者に伝われば望外の喜びである」とあるが、じつは落語も精神分析にも親しみを持っていない私でもぐいぐい読めた。増刷もされているし、著者の願いはかなえられたのではないかと思う。落語を聴きに行きたくてしょうがなくなっている(精神分析は高くないお金を払い数日連続して通わなくてはいけないらしいので、まだそこまでの意欲はもてない…)。(良)
Copyright(C) 2001 GAL. All Rights Reserved.
 
TOP BACK