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小熊英二著『生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後』岩波新書 2015年

 小熊謙二(1925年〜)の経験を通じて浮かび上がる、日本の戦前・戦中・戦後史。貧困、出征しシベリア抑留、帰国後の結核療養所生活、高度経済成長、戦後補償裁判。誰の記憶にも残らず消失していったことであろう事実の数々が丁寧に聴きとられ、指導者でも著名人でもない、庶民が実際に経験した歴史が記録されたのは、謙二が著者の父であったからこそだ。上記の出来事の項目を読むと、「劇的」と思える。また帯にも取り上げられたインタビューのしめくくりの言葉、(人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったか、シベリアや結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、とい問いに)「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」を読むと、ついぐっと感動しつつも、「なんだなんだ、これは父が子に語る、お涙頂戴の安易な感動の人生訓か?」という印象も抱く。しかし、この最後の言葉以外は、感傷を排し、次々と事実を確認し、細々とした事実の経過が聴きとられている。様々な事実について、謙二が感じたこと、考えたことも聴きとられているが、謙二自身、感傷に走らず淡々と答えるひとのようだ。戦前戦中を経験した人が今ならまだ存命で、これほど克明な記憶を残している。まさにこれが歴史だ、著名な政治家等の足跡、自慢話等はいらない、これこそ残すべきだ、と前のめりになる。いやしかし、著者ほどの見識と方法論がある聴き手、書き手でなく、素人の「自分史」となれば、ここまで貴重な現代史の証言にはならない、とクールダウンする。「父から子へ伝える感動の人生訓」色は全くないものの、やはりこの本は父子のコラボによる作品なのだ。
 1930年代の小学校では、零細商店・職人・日雇い労働者などの子どもたちと、「月給取り」といわれた中産層の子どもたちが混在していた。「いまのように平等主義」ではなく、学芸会などは「月給取り」の子たちが役をした。自分の保護者は働いて忙しく学芸会に来たこともなかったから、配慮の欠如をなんとも思っていなかった、といった細部が生々しい。
 日米開戦の際、進学していた早実で、万歳を叫ぶ教師もいたが、国民服など決して着ない教師もいた。その商事担当の教師の「新聞は下段から読む」という助言を謙二はずっと実践した。言論が統制されている中で、日独の勝利を印象付ける見出しが躍る新聞の下の目立たないところに、不利な情勢が示唆される情報が載っていた。なるほど。今でも十分学ぶべき助言だ。
 しかし、そうした批判的な視点を身につけたとしても、歴史の圧倒的な流れに一個人が抗することはできない。既に帝都東京の上空を米軍の戦略爆撃機B29があらわれ爆撃するという誰の目からみても敗戦必至な様相の1944年、謙二は召集され陸軍へ入営する。南方戦線や本土にひきぬかれた穴埋めの中国の関東軍は、装備も訓練も何もかも不十分だった。謙二らは何の防衛準備もせず、「ぶらぶら」していた。「軍隊は「お役所」なんだ。上から部隊を編成しろ、ここに駐屯していろと命令されたら、書類上はその通りにするが、命令されなかったら何もやらない」という言葉も印象的だ。
 敗戦後、シベリアに抑留される。食料がとにかく乏しく、最初の冬はとくに苛酷だった。国際法などについて将兵も無知であり、もちろん謙二も賃金をもらう等のことなど考えていなかった。苛酷な状況の中で、親しい友人の最期をみとった(この情景を語る際はさすがに謙二も今もなお心を揺さぶられるようだ)。ソ連による捕虜の移送、強制労働は、受け入れ準備も労働計画もなく、マネジメントが拙劣で、非人道的であるばかりでなく、コストのほうが高くつき、経済的にもマイナスであった。しかし、厳しい経験をしたことの恨みつらみは語られず、周囲のロシア人も驚くほど貧しかった(当時確かにソ連経済も窮迫していた)、戦争で息子や夫を亡くしたロシア人女性(おばあさんが多かった)は同情してくれ、捕虜の自分たちに食料をめぐんでくれもした、人格者のロシア人将兵もいた等、謙二は淡々と話し続ける。
 飢えと寒さの苛酷さは軽減された2年目からは、捕虜たちのあいだで、共産主義思想にもとづいてお互いを糾弾する「民主運動」という別の苦痛が始まった。ソ連当局が煽ったことはなく、「自主的」な運動であった。集団的な反動摘発は、凄惨なリンチとなったこともある。比較的もともと平等だった謙二の収容所では、そこまでのリンチはなかったが、「反動分子という烙印を押されたら生活のすべてについて回る」「いつ摘発されるかわからない」という恐怖は大きかったという。反動としてブラックリストに載ると、帰国できないと根拠なく信じられたために(実際は全く関係がなかった)、謙二も、群衆役として「そうだそうだ」と叫ぶくらいのことはした。全く無意味な行動(辻演説の練習、デモ等)をやらされる。戦争でも、「民主化運動」でも、盲目な「指導者」が強いるバカバカしい行動(「民主化運動」のデモ等を謙二は「戦争ごっこ」と表現する)に、従わざるを得なくなってしまうのだ。
 帰国後の生活は貧しい。コメと野菜のほか、たまに佃煮を食べる程度。「官僚や高級軍人は、戦争に負けても恩給が出た。しかし庶民は、貯金もすべて戦後のインフレでなくなった。ばかな戦争を始めて多くの人を死なせ、父や祖父母をこんなひどい生活に追い込んだ連中は、責任をとるべきだと思った」。天皇についてもしかり。生活に追われ、政治の話をすることもなかった。「飯の種にはならないからな」といことで、日本国憲法にも関心がなかった。そのように政治に関心はなかったが、シベリア帰りということで、占領軍に呼び出されたり、手紙には何度か占領軍に検閲されたあとがあった。捕虜としての経験から、ソ連、共産主義は嫌いだが、軍国主義はもっと嫌いということで、共産党や社会党に投票してきた。短期の仕事を繰り返しなんとか食いつないでいたところ(まだ日本は不安定で、終身雇用等とありえず、会社自体がつぶれることが多かった)、25歳で結核を発症、療養所で30歳までの5年間を過ごす。隔離された患者たちは人権状況を問題にし待遇改善を求める運動をした(朝日訴訟の支援もその一環であった)。しかし、謙二はシベリアの収容所の「民主化運動」の苦い経験から、参加しなかったという。
 療養所から出ても、「下の下」から浮上するチャンスはもうない。そう思った謙二であったが、高度成長の進展により、スポーツ用品の販売という新規ビジネスのチャンスをつかみ、結婚もし、家も手に入れる。
 生活が安定したころから、「生きて帰ってきたのが申し訳ないような気持」がし、厚生省に問い合わせて、シベリアで亡くなった友人の兄の所在を確認し、会いに行って友人の最期を伝えたり(言葉少ないものの、胸を打つ)、不戦兵士の会に参加したりもした(しかし「政治運動」「論客」に違和感を抱き距離ができてしまう)。収容所跡地ツアーへ参加したほか、朝鮮系中国人の元日本兵のソ連抑留による慰労金(そもそも補償ではない)を請求することができないことを知り、共同原告にもなる。
 おだやかに生活しながら、世の中の最近の動きに静かな苛立ちを感じている。政治家が靖国参拝を繰り返すことや南京事件が虚構だといった論調にはもはやあきらめの心情だが、週刊誌の排外的な罵詈雑言には怒る。非正規雇用の若いひとたちが希望を持てないこと、「使う側」にモラルがないことなど。アムネスティインターナショナルその他非営利団体に会費を払い、「良心の囚人」の収監に抗議する葉書を送っている等のあたり、理想に燃えたぎっておらず諦めもあるものの、不当な扱いを受けてきた20代の経験をばねに、自由を侵害された人々への共感をずっと抱いていることに感じ入る。
 戦争がどれほど人の尊厳を傷つけるかもよくわかる、貴重な記録の書だ。
 なお、前夫と子どもを授かったものの離婚し、再婚したものの、共産党や社会党に投票する夫とは異なり保守的で、長男を喪った後気にいって手に入れたはずの新居を手放し、晩年は家事も厭うようになったという著者の母からみた昭和・平成史はまたどんなことだったのだろうか。残念ながら今年1月に亡くなられたようだ。女性の記録も知りたかったところだ。(良)
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