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中村英代『摂食障害の語り <回復>の臨床社会学』新曜社 2011年

 「摂食障害」と総称される拒食、過食、嘔吐など。家族や自分が摂食障害で出口が見えず苦悩しているという人もいれば、「アイドルが拒食症で激ヤセ」などというゴシップを興味本位で聞き流すだけの人もいるだろう。本著の挙げる様々なデータによれば、摂食障害はもはや特別な個人の病理ではなく、社会的な広がりをもっている。そのためもあってだろうか、摂食障害をめぐる言説も多数ある。第三者が訳知り顔で語ってきた摂食障害の原因論をフォローした上で(といっても、著者はあくまでも謙虚であり、後述するとおり、他の言説に攻撃的ではない)、著者は、特定の何かに原因を求めるという思考形式自体に限界を感じる。このような思考方法を相対化し、また社会現象としてでもなく、個別の事象を理解したいとして、摂食障害とそこからの<回復>を臨床社会学的に考察していく。
 臨床社会学とは?社会環境というマクロな視点を意識しつつ、人々のリアリティを把握し臨床へと応用していこうとする学問だという。といわれても「?」であろう。しかし、18名の回復者本人の語りから<回復>に至るまでの物語を辿っていく本著を読めば、それが、彼・彼女を社会の中にありながらも受容するだけの客体とみなすのではなく、かといって「主体性」を称賛する反面安易に「自己責任」として自力による回復を迫るのでもなく、社会と相互作用しながらも自分の問題を分析し解決(それは完全な回復に限らない)に向け実践するプロセスを辿り、固定的な原因論とは全く様相が異なる、多様な個々の経験を生き生きと描出する、とても誠実な知的な実践なのだとわかるだろう。
 第三者による原因論には、「個人」の問題として心や無意識やパーソナリティに原因を求めるストーリー、「家族」の問題として養育上の問題や家族関係の問題に起因するストーリー、「社会」の問題であり、女性をめぐる社会環境に原因があるというストーリーがある(それぞれが混合している場合もある)。
 まず、育ち方や成熟拒否だけで説明する発達理論は、回復を妨げる危険すらあるというのに、今なお流布する考え方だ。結婚や性、職業をめぐって社会が規定する女性役割を患者たちに受容させることが治療になる!ということで、実際、男性医師たちが価値観を修正しようとしない女性患者に電気ショックまで施し、「矯正」しようとした(!)。
 原因を幼少期の母子関係に求める解釈も、根強い。しかし母子関係論を私たちが比較的違和感なく受け入れてしまいがちということ自体が、ジェンダーによるバイアスの強固さを物語る。母親に原因を求める解釈も、現実的な弊害がある。それは、母親を心理的に追い詰めるとともに、父も患者も母のせいにし、母は自信をなくし、全員が「いずれにしてももう取り返しのつかない問題だ」と絶望し、家族関係にひずみを生む。
 全く別の角度から考察するフェミニズム・ジェンダー論アプローチは、つねに他者からの評価や欲望にさらされる女性の身体に注目する。社会的な力にさらされた摂食障害の患者は、身体を肯定することができず、ダイエットに駆り立てられる。このアプローチは、個人病理化する傾向に歯止めをかけ、摂食障害を「社会」の問題として捉え直すという意義があった。しかし、他方で、女性を社会から抑圧を受けるだけの受容的な存在と押しとどめ、自らの経験を解釈する権利や力を奪うことになるという難点がある。
 本書は、原因論ではなく、<回復>に主眼がある。しかし、もちろんインタビューの対象者の語りから、背景としての発症過程をも考察することになる。そして、過食という瞬間だけとらえれば、コントロールが破綻した状況にみえるが、自己には食欲や感情といった身体をコントロールすることができるという幻想が強固であることを押さえる。回復者は、当時のその思い込みを相対化する(「昔は頭で生きていた」等)。<回復>には、身体への直接的なアプローチから、生き方の問い直しというスピリチュアルな次元へのアプローチまで、多種多様である。ホメオパシーや美容整形、自己啓発セミナーなど、つい首を傾げてしまうような契機についても、著者は一切批評を加えず、淡々とその人の経験として記述する。また、<回復>も、人によっては過食や嘔吐がなくなったときだったり、様々なこだわりがなくなったときだったり、過食をする自分をそのまま受け入れたときだったりと、様々である。回復者たちは、医師など「専門家」に適切に導かれるばかりでも、抑圧されるばかりでもなく、「専門家」の解釈に沿って生きる時期があったとしても、そこに留まり続けず、自ら新たな物語を生み出す存在でもある。個々人は、解放へのパワーを持ち、実践する。なお、本著は、「専門家」についても、特定の見方に支配された抑圧者だとネガティブに批判しない。現状の摂食障害言説の書き換えは、専門家も、外部の観察者の立ち位置には安住できないが、今までのストーリーから自由になり、多様な語りと実践を展開していく、彼ら彼女たちにとっても、解放の契機になる、という。
 「なぜ」摂食障害になるのか、という問いではなく、「どのように」回復するのかという問いへ転換すると、こうも生きられた経験の多様性が浮かび上がるのか、とエキサイトしてしまう。しかし、著者自身は、どこまでも慎重で謙虚である。<回復>を強調することで、摂食障害に苦しむ人々に自力での回復を迫ることにつながる可能性がある。苦しむ人々が回復できるのに回復しない人とレッテルを貼られ、抑圧される余地がある。主体性の称賛は、容易に自己責任論にからめとられてしまう危険があるのだ、と。
 人と環境の相互作用に着目したモデルとして、「相互作用モデル」が提示される。このモデルは、他の状態もありえたのにたまたまその状態であることを説明できるという、人々の認識・活動の連鎖に含まれる偶有性を説明できること、さらには、ある特定の条件が摂食障害を生むという決定論を避けることができる点にメリットがある。<回復>を理論化しつくすことはできない。当事者の主体性の名のもとに、回復が自己責任に委ねられ、社会的医療的措置の枠外に放置される事態は避けなければならない。また、<回復>の物語を手放しで評価することで、回復できない個々人が居心地の悪さや恥ずかしさを感じないで生きていける空間も必要だ。過食や嘔吐を否定するのではなく、受容していくことが、回復のプロセスに必要なことも多い。そして、過剰に病理化し、過度に保護していくことも、文脈によっては事態を悪化する。状況や文脈によって、絶えず変わる、摂食障害のありようも、語られようも。
 著者自身、過食症からの回復者である。しかし、「当事者の語りこそ真実、私の言うことを聞け」という姿勢はみじんもない。むしろ、体験者が特権的な位置などにはないと自覚し、他の体験者に耳を傾け、先行研究にも学ぼうとしている。あとがきのこのくだりに感動した。「先行研究を批判し、ほかの専門家と闘い、自己の議論の優位性を主張する。こうした知的なゲームには、学問を推し進めていく力がある。(略)けれども、批判や告発の言葉をできるだけ使わずに、やさしい気持ちのままでとは言わないにしても、少なくとも攻撃的ではないスタンスで学問ができないものだろうか。(略)立場や学派が違っても、ある問題の解明や解消という目的を共有している者同士が、つながれないはずがない。」おお、こんなことを望む研究者が現われたとは。自己を過剰にコントロールして傷ついた摂食障害者たちの回復のプロセスを丹念にたどる優しさは、研究自体にも活かされていくことだろう。
 研究書でありながら、平易であり、回復者をことさら称揚することもなく、摂食障害者をことさら「病者」とさげすみもせず、ゆるやかな回復過程を紹介する本著は、摂食障害のただ中にあり苦しんでいる患者や家族をほっとさせるに違いない。回復するかもしれない、しないかもしれない、だけど多様な解決がありうる、ということを知るだけでも、力になるはずだ。(良)
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