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細川亜衣『食記帖』リトルモア 2013年

 愛読誌『クウネル』にイタリアで料理修行中のときに登場したときから、著者のことは、鮮烈な印象を抱いた。その後も、高橋みどりの連載「伝言レシピ」に頻繁に載る著者のレシピ、さらには、「米沢亜衣」時代の『わたしのイタリア料理』といった本にも、シンプルな中に凛とした精神を感じ、何かこう、背筋を正してレシピを読まねばならない、料理家、いや料理の求道者のような気配を感じた。キャピキャピした料理ブロガーとは180度違う、そぎ落とした修行に似たような。ほっこりというより、襟を正して食さねばという気になる。
 その著者が結婚し、熊本に移住し、子どもを育てながら、日々の食卓を書き綴っている。滋味に富む郷土料理、手作りのパスタなどのイタリア料理、上海から帰るや舌が覚えた上海料理、全く聞いたこともない野菜や調味料をふんだんに使い込んだ料理…。「猪一頭が届き、さばく。皮付きのまま焼く。」といった圧巻の料理もあるが、ほとんどは「どう?すごいでしょう」というよりは、淡々とした日常(でもどれもひそかにただものではない料理の数々である)。「市役所そばの蕎麦屋」(名前も記さず、こだわりの蕎麦屋ではなかろう)で食べたそばといったものも、そこに浮いている葱などもひとつひとつメモを欠かさない。著者がそんなもの(というのはお店に失礼か)も食べるのだと意外に思いながらも、律儀に記録するところに、やはり食への並々ならぬ探求心を感じる。
 食事以外の記載はほとんどないが、娘の「椿」、夫のお母さんである「佳代さん」、夫の「護光さん」も時折登場する。多いのは、ずっと一緒に過ごしている椿。いつもはごはん好きな椿が、皮付き猪を次から次へと平らげる様子に、「美味しいものをわかる子だ」と喜ぶ。椿は、母同様、どんなに、食に対する感覚が洗練されていくのだろう。
 おだやかな生活の中で、ときには、「朝、椿の言葉にまた涙する、心に深く刺さる言葉の数々。午後、気を取り直して二人で動物園に出かける。」などいう記載もある。幼い子どもをいつくしむ母だって、傷つくこともある。そうか、凛とした著者でも、やはりお母さんとしてまだ入門者、戸惑い悲しむこともあるのだなあと、ぐんと親近感がわく。
 親近感がわくといえば、暑いときに、「何も作りたくない、外食したいが、椿が午前中寝ていたので」仕方なく食事を作るという記載などにも。家族の健康を大切に思いながらも、仕事で疲れたりすると、しょっちゅうそう思ってしまい、罪悪感をおぼえていたが、なんだ!料理家の彼女でもそう思うのだとほっとする。
 淡々とした日常の記述に、どうも、不全感がただよっているように思えてならない。久しぶりに東京に行って食事会に盛り上がりつつ疲れた、星が見えない、行く前から熊本に帰りたい、などと書く。しかし、ときには、「何だか哀しい一日。外に出ると椿の楽しそうな声。小さなことで報われる日々の連続。」といった記述もある。20年近く前のイタリアでの修行中のことにしばしば思いを馳せる。あとがきには、「静かすぎるここでの暮らしの中で、日記を綴っている時だけ不思議と生きている実感が湧いてくる。」と。料理界のスターともいうべき有元葉子に師事したあと、言葉もわからぬイタリアで食を探求し、日本に戻るや新進気鋭の料理家として華々しくデビュー、そのキャリアをほぼ中断して、熊本で、時折料理教室はするものの、ほぼ主婦の役割を担う。第三者が勝手に憶測するのもなんだが、著者は今の生活に充足していないように思える。子育てもあっという間だ、そのうちに、いや今だってもっと活躍できるのでは、と、遠くからエールを送りたくなる。
 文章もきびきびしていて、著者の料理に似て、「無駄」をそぎ落としているようだ。同じくシンプルながら、周囲の人々とのやりとりをほんの少し、しかし鋭い観察力と絶妙なユーモアで書き綴った武田百合子の『富士日記』を思い出す。同じく田舎での生活を食を中心に淡々と書き綴ったものとはいえ、全く趣が異なる。ユーモア、そしてそれだけでなく、その生活に満足しているかどうかも違うように思う。武田百合子には、武田泰淳を支える日々に、微塵も迷いはなかった。また、料理家ではない武田の食の記録には、こちらが見たことも聞いたこともない調味料や野菜などは一切出ないし、繰り返し同じもの、それもシンプルなものが登場するが、どれも不思議にとてもとても美味しそうに思えた。『富士日記』を読み返したくなった。(良)
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