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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮社2019年

 読みながら何度も何度も涙があふれた。
 感動した、という言葉では、安っぽい。
 思春期にさしかかった、優等生の少年の成長譚、というくくりでは、言い足りない。

 大人として、母親として、子どもに、この社会の貧困、格差、レイシズム、ジェンダー不平等etc…をどう教えるか、どう、あってはならない!とわかってもらえるかと、気負いがちだった(上から目線か)。一方で、子どもには、できるだけ長く、この社会がうきうき、嬉しいものと繭の中で思っていてほしい、痛みや悲しみ、苦しみ憎しみが渦巻いているとは気づかないでほしいとすら思っていた。子どもが悩み苦しんだりしないように、あるいは悩み苦しむ時期を少しでも遅らせるように…。でもそれって本当に子どもを思ってのことだろうか。
 苦しい現実に向き合うことなく目を背けたいという大人の逃避そのものではなかったか。子どもが幼かったころ一緒に歩いていて、ヘイト街宣にばったり遭遇してしまったことがある。そのときに、子どもに「何を言っているの?」と聴かれて、とっさに「ママもわからない」と答えてしまった。でもその後数年経って、ヘイト街宣の記事を読んだ子どもは「あのときのはこれでしょう」と即座に言ったのだ。そのとき、あのとき母が説明を逃げたことも気づいていたのだ、逃げるべきではなかった、と思った。とはいえ、パンクでなんでもしっかり子どもと意見をかわすようなみかこさんにしても、全部を息子さんに伝えるわけではない。日本に里帰りした際に、アイルランド人の夫との間の息子さんに酔っ払いが吐きつけた悪意の言葉の数々を、息子さんには伝えない。しかしその後、息子さんから、酔っ払いから悪意を向けらたことは当然わかっていたと告げられる。
 そう、子どもは、わかっているのだ。教えられなくてもすでにこの社会に、差別、偏見、貧困、格差があるということを。そして、アイデンティティの袋小路にも。みかこさんは、中国人の少年が生徒会長になったと聞いて、「胸のすくような思い」をした。東洋人として差別された経験は、東洋人に対する帰属意識を生んでいた。息子さんにはそれがない。帰属意識から、異質なものを排斥することもある。でも、帰属意識は、誰かに優しくするということにもつながる。帰属意識があることの陥穽、帰属意識がないことの不安定さ。すぱっと整理はつかない。息子さんも、社会も、知恵熱にかかっている。

 大人が講釈をたれても、子どもは偽善を見抜く。正しいことを正しいとすることにも陥穽があるということも知っている(万引きする貧困少年を咎めていた正義感あふれる少年たちが、貧困少年を見下し、はては暴力をふるう。いまどきないダサい差別用語を放つ移民の美少年をいじめる、等など)。
 難しい状況で、どう工夫して生きていくか。知恵を搾る。ゆっくり考え抜く時間があることばかりではなく、瞬時に判断して行動しなければならないこともある。そのときの子どもの判断の賢明さに大人の方が学ぶことがなんと多いことか。

 とはいえ、子どもを放任すればいいということではない。息子さんが通う元底辺中学校に「元」がつくようになったのは、 クリスマスに労働者階級の日常(「父ちゃん、団地の前で倒れてる、母ちゃん、泥水でがなってる、…」)をラップする少年を誇らしげに喝采したり、授業についていけない生徒たちを放任せず、廊下で個別に教えたりする教師たちがいたから。
 元底辺校を底上げした現校長の方針にみなが満足、大賛成というわけではない。衣類にも食事にも困っている子どもたちがいるというのに、勉強やクラブ活動に力をいれ、学校全体の学力をあげたり、公立校ランキングで順位をあげたりすることにどれだけ意味があるのか。ぐうぐうお腹を鳴らした子どもに、ポケットからお金を出すことがまず先だ、教師も賃金を凍結されているのに、と、不満を持つ古参の教師もいる。教育に予算がかけられないことで、教師は目の前の子どものためにソーシャルワーカーにならざるを得ない。日本でも同様の様相がある。

 感動したことのひとつ。イングランドの公立学校の7年生から9年生に導入が義務付けられているシティズンシップ・エデュケーションで、11歳の子どもへの期末試験の問題が、「エンパシーとは何か」。息子さんは「めっちゃ簡単だった」という。みかこさんの配偶者と同様、私なら「わからねえぞ。めっちゃディープっていうか、難しくね?」と言いたくなる。息子さんは「自分で誰かの靴を履いてみることって書いた」。他人の立場で考える、という英語の定型表現だという。
 さらに期末試験には、「子どもの権利を三つ書け」というもの。息子さんは「国連の児童の権利条約で制定されているんだよね」と三つの権利を即座に挙げる。「まだ他にもあるよ」と。
 これらを日本でも子どもに学んでほしいのだ!と膝を打つ。搾取されない権利、教育を受ける権利、意見を表明できる権利etc.があること。そして、自分とは違う信念や理念を持つ人、別にかわいそうと思えない人々が何を考えているのだろうと想像する力(尊敬する刑事弁護の先輩が言っていたことを思い出す。弁護士に必要なのは、健全な想像力だという言葉を)。かわいそうな人に同情する、シンパシーなら、努力しなくても抱ける。しかし、あらかじめ共感できそうにない人との間の分断と対立が深刻になっている現在、学ぶべきはエンパシーではないか。
 日本の公民はどうだろう。子どもの権利条約上の権利を教えなどしないのではないか。むしろ道徳では、集団の中での役割、義務を果たせと圧迫感がある。

 もっとも印象深いエピソードは、貧しい同級生に、制服のリサイクル品を渡すときのこと。みなの前で渡すのはいけない。ふたりきりになったときに渡すのも、傷つけるかもしれない。でも、なんとか渡す。同級生が「どうして、僕にくれるの?」と問う。貧乏だから助けてあげたいという「善意」が伝わってしまったら、思春期の同級生をどれだけ傷つけるか。みかこさんは、胸を射抜かれたように所在なく立つ。そのときの、息子さんが言った言葉。涙がどっとあふれた。読んでいただきたいので、この言葉は書かないこととする。とにかく、素晴らしいなあ、子どもって、とつくづく思う。大人があれこれ、先回りしてリードしようとしなくても、子どものほうがよほど、賢明で、繊細で、やさしかったりもする。
 差別的なことをいう同級生ともいつの間にか友だちになり、その上でその同級生が差別的なことを言うたびに注意する。セクシュアリティを学んだ授業の後、同級生4人で帰る途中、息子さんともうひとりは自分は多分ヘテロだといい、差別的なことを言ってしまうひとりがヘテロ以外ありえないという。そしてもうひとりが「自分はまだわからない」と言った。差別的なことを言ってしまうひとりはどう反応したか。ショックを受けたようだが、「時間をかけて決めればいいよ。焦って決める必要はないよ」と言ったのだ。これぞ、エンパシー!と思える子どもたちの言動がそこかしこにある。
 分断と対立で混迷した社会でも、絶望することはない。出会いが、私たちを成長させてくれる。元底辺校の子どもたちのリアルな日常から、そんな希望を抱くことができる。(良)
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