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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
中沢けい著『アンチヘイト・ダイアローグ』人文書院 2015年

 2012年7月、東京から那覇、那覇から韓国の金浦へと、中沢さんが三角移動中、東京も那覇もソウルもよく晴れ、平和だった。日本のバイオリニストが韓国で人気だったり、ソウルのホテルや免税売店に日本人韓国客があふれていたり。アジアの新しい時代を感じられる光景だった、という。しかし、その翌月、李明博大統領が竹島に上陸。それ以前に、日本の右翼政党の代表による挑発があった。新大久保の韓流スターのプロマイド等を売るイケメン通りに「在特会」が「お散歩」としてヘイトデモを繰り返すようになった。中沢さんは、李大統領の行動の背景に日本人による挑発行為があったことを書いた原稿を送った後、物書きになって味わったことのない怖さを感じたという。ツイッターでの攻撃的な事実改変のすさまじさを目の当たりにしていたからである。そして、この非常識な現象が安倍政権と親和性を持っている、いやそれどころか直接的なつながりさえあることも判明してきた。
 中沢さんは、すさまじい怖さを感じながらも、沈黙は不安を生むとして、希望を見出す手がかりを見出そうと対談を重ね、本著をまとめた。対話の相手は、小説家の中島京子さん、平野啓一郎さん、星野智幸さん、政治学者の中野晃一さん、エコノミストの向山英彦さん、社会学の明戸隆浩さん、京都朝鮮初級学校襲撃事件と李信恵さんの名誉棄損事件等の弁護団の一員である上瀧浩子さん、元自衛官で社会運動家の泥憲和さん。対談時(2015年2月末〜4月)までの、そしてそれ以降の、政治や社会の動き(安倍談話、安保関連法etc.)を考えると、不安と焦燥にかられる。しかし、抽象的に社会を憂うにとどまらず、現実を見据えた上様々なアプローチで諦めずに反知性主義や右傾化を押しとどめようと実践も重ねている方たちと、どんなアプローチにも興味を示し知性と好奇心で切り返す中沢さんとのやりとりを読み進めるうちに、諦めないで希望を見出していかなければとあらためて決意する(と、言ってみる。実際はますます絶望しそうにもなるが…)。
 中島さんとの対談では、以下のやりとりが印象に残った。戦前の価値観を取り戻し、戦争する国になりたい人たちが権力の中枢にいるという状況を看過すべきではない。にもかかわらず、人びとは無関心のまま。それはまた、「平和の日常」と「戦争の非日常」が同居してしまった日中戦争後の状況と重なる。内田百閧ネど、空襲の最中の日記に、誰も彼も仕事ができずヒマでヒマで、「飛行機さえ飛んでこなければ、こんなのどかな日は生涯の内にこの時以外にない」と書いている。まあ、百閧ヘへそ曲がりとはいえ、非常時でも、日常感覚を維持しようとする力は大きく働くものかもしれない。いま何事も変わっていないかのように日々を過ごす私たちにもその力が働いているのではないか。
 平野さんと中島さんは、ツイッターで絡まれて散々な思いをしているはずだが、SNSの可能性にまだ期待してもいる。正面切って議論するとうまくいかない。しかし、誰かと誰かが議論しているのを傍から見ていると、意外と自分の意見を変え易い。特に専門家どうしがきちんと議論しあうのは大切で、私たちはその「横顔」「後姿」を眺めつつ(もちろんロジックも追いながら)、こっそり意見を代えることができる。諦めず反論することで、意外なところで共感が得られているかもしれない。
 星野さんとの対談中の、ヘイトスピーチは「日本社会に打撃を与えるものでもありますから、日本社会に住んでいる人はみんな被害者だとも言える」という中島さんの指摘には大きくうなずいた。直接の被害者への被害を軽視する意味ではもちろんなく、「直接被害がないし」と黙認しているマジョリティ(この社会の)も自分の問題として向き合わなければならないということだ。「あまりに幼稚すぎ、暴走族と喧嘩するようなもの」で、文学に携わる人間が向き合うレベルの話とは思われないかもしれないが、「肉声を失った日本語をもがいて取り戻す、やはり言葉の問題だ」という中島さんの指摘に、星野さんは「僕も少し経ってからそれが分かって、すごく反省しました」と応じる。法律家にはない着眼点で、目をひらかされる。
 中野さんは、安倍政権のありようを鮮やかに分析してくれる。「日本を、取り戻す。」という表現に端的に表れている、被害者意識の強さ。アメリカの共和党の極右勢力にあるホワイトマジョリティの被害者意識(マイノリティや女性に突き上げられ、白人男性だからってどうして自分たちが謝らなきゃいけないんだという逆ギレ感情)と符合する。東アジアにおける覇権を死守したいアメリカの保守派とその虎の威を借りたい日本の保守派が一致して、中国脅威論を煽る。自らのキャリアを築き上げてきた政治家たちが少なくなり(叩き上げも良し悪しがあるが)、お坊ちゃんお嬢ちゃん議員たちばかりになる。彼らは、信念があるわけではないから、右が強くなると右に引っ張られる。危機意識はなく、「踏みとどまらなければ」という矜持がない。民主党は大コケしたにもかかわらず、「自民党以上に優等生体質なところがあり、正しいのだからいつか報われるし分かってもらえるという発想が非常に強い」といった指摘に大きくうなずく。しかし、議員ばかりを責められない。中野さんによれば、安倍首相の支持者は、「依存心の強さがあるリスペクトの感情にもつながっているところがある」、これに対してリベラルは、「政治家に対してリスペクトの感情を持つことができなかった」。依存心を持つ必要はないが、多様な評価を受け入れる度量は必要だ、単調、単色に物事を見るだけでは、民主主義は育まれない。私たちにも、異質性を受け入れた連帯を再生する度量が必要なのだ。
 在特会などのヘイトスピーチも含むバックラッシュには、古い差別の記号的な応用はあるが、教養はない。明戸さんは、いまのバックラッシュは、90年代後半以降に男女共同参画というかたちでフェミニズムの制度化が不十分ながらなされて、それに対して2000年代(特に第一次安倍政権下)に反発が現れたことが起点になっているのではないかと指摘する。ひとつひとつは教養もないくだらないものであっても、それが積もるとなんとなくひとつのうねりになり、漠然と、「人権とか戦後民主主義とか左翼とかってダメなんじゃないの」という雰囲気がつくられているのが怖い。偏っているが、非常に執念深い言葉の蓄積。民主党には献金団体の日教組が背後にいるのではないかという在特会の論理と同じく、安倍首相が国会で「ニッキョーソ、ニッキョーソ」と野次を飛ばしたことに、震撼としないではいられない。しかし、中島さんによると、政治部記者はしばらく右往左往していたとか。記者たちは、何か起こっているのか、つかめていないということだ。
 向山さんは、エコノミストの視点からしても、「安倍さんやその周辺の人が持っている歴史修正主義的なビジョンはとても未来がない考え方」という。アジアの中で一緒に政党を維持していきましょうという人の方が多いと思っていたら、最近不安になっている、ともいう。本当に、経団連などは、損得からしても、安倍政権や自民党を支持してどうなると考えているのだろうと不思議でならない。
 パワフルで尊敬する上瀧弁護士も、「ヘイトスピーチに付き合っていると、直接被害者ではない私でさえ、荒んできますし、疲れます」という(やはりそうか)。個別の事件の被害者に寄り添って、その被害回復(足りないとしても)を求めて法律というツールを使って裁判所に判断してもらう。弁護士として大変意義がある仕事だ(私もいずれは!)。しかし、ずっと罵詈雑言を浴び続ける当事者に個別の事件の原告としての負担をも負わせるのは酷である。人種差別条約に批准して20年になるというのに、基本法すら成立しないのは、あまりに不合理である。私の周囲の弁護士でも、「言論には規制ではなく対抗言論を」という人は少なくない。しかし、それも個人に負わせるのはどうだろうか。「ただの嫌がらせは言論ではない」(中沢)、「おっしゃる通りです。だって『ブスババア』とか『ゴキブリ』とか言われることに対して、どう対抗言論を立てるんですか。『ブスではない』『ババアではない』ことを議論するんですか。そんな無意味な話はないわけでしょ」(上瀧)のページは蛍光ペンでみっちりマークした。まさに、私が前から言いたかったことだ、と。
 阪神大震災時で直面したお役所仕事の不毛さや、「アンコ」、社会の社会の下の仕事でも、段取りを工夫してきっちりやっている素晴らしい人といった、自衛官を含む様々な仕事を経験してきた中で出会ってきた人たちのリアルな姿が思い描けるような話、「慰安婦」、「外国人研修生」、秘密保護法、集団的自衛権、さらには、『死の棘』、親鸞など、縦横無尽に語る泥さんと中沢さんの回は、まさに最終回にふさわしい広がりと深みがある。
 おろおろしてもいられない。冷笑してもいられない。諦めず、語りあい続けたい。(良)
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