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わがまま読書 独断と偏見に満ちたこむずかしくない読書案内です。教科書からマンガまで。
市澤秀耕・市澤美由紀『山の珈琲屋 飯館 椏久里の記録』言叢社 2013年

 今まで一体何杯のコーヒーを飲んできただろう。一日一杯としても何千杯?そんなにたくさん飲んできても、記憶に残るコーヒーとなると、ほとんどない。しかし、思い出すだけでうっとりしてしまうコーヒーがある。それは、南千住にあるカフェ・バッハ。香りをかいで、一口ふくんで…。コーヒーってこんなに豊かに美味しいものなんだとしみじみ感じた。超有名店となってからも、山谷といわれる場所に残り、地元で愛される店であり続けるのもいい。美しいコーヒー豆が並ぶ棚を背景に、この道の第一人者である田口護氏のもとで「珈琲道」を修業できることを歓び誇りがみなぎっているバリスタたちはきびきびと気持ちよく仕事をしている。その空間もとても好きだ。ただ、一歩出れば、殺風景な東京。もし、カフェ・バッハの馨しい珈琲を、大きな窓の外のブルーベリー等の畑や山なみ、空を見渡しながら飲めるとしたら?カフェ・バッハのケーキもとてもとても美味しいけれども、その畑で採れたばかりのブルーベリーを使ったケーキを頂けるとしたら…。うっとりする。
 そんな夢のような空間が、福島県飯館村にあった。著者らは、飯館村で自ら「桃源郷」という珈琲屋「椏久里」を築きあげてきたご夫婦だ。農作業に苦労していた美由紀に向くのは、人と接し、美味しいものをサービスする仕事では…。そう気づいた二人は、周りが無謀だと止めても、突き進む。美由紀は、カフェ・バッハの田口の下で修業し、秀耕も田口に誘われてケニア等コーヒー産地を視察する等、研鑽を重ねた。半農半珈琲から徐々に農業を縮小してきていた。秀耕の老親の体力が落ちていくに伴い、田畑は人に貸すようになった一方、当初は惨憺たる有様だったブルーベリー畑を拡張した。飼っていた牛を活かしてビーフシチューをと夢を語る市澤夫妻を、田口夫妻はまずはコーヒーに専念し徐々に様子を見ながら広げていくようにとアドバイス。開始してみるとそのアドバイスに従って良かったと悟るも、それでも、ケーキを作り始め、ジャムも販売を始めた。コーヒーでもケーキ・ジャムでも畑でも人を雇うまでになった。都会からきた女性たちが窓から風景を眺めてカフェとケーキを頂き、「素敵」と呟く。女性たちが自分たちの苦労を知っているわけではないとわかっていても、その「素敵」という一言で、夫妻は自分たちの夢が実現しつつあると実感できた。
 市澤夫妻は夢見がちな人たちというイメージをもたれたかもしれない。夢は追求するけれどもがっちりと現実も見据えている。両者とも公務員であった経験もあり、特に秀耕は、「様々な分野で政官財のトライアングル構造が出来上がり、その構造の上に社会が成り立っていると感じた。特に官は政の陰になって国民からは見えにくいので、予算と法の運用という強力な権限を持っていた。(略)いろいろな社会問題が生じたときに、このトライアングル構造を基に方程式にすると、問題の原因や背景が腑に落ちることが多かった」といった具合に(57頁)、「民主主義」といわれるこの社会の歪みを経験に基づいて指摘する。
 そして、のんびりのどかに夢を実現したのでもない。美由紀は書く。開店準備のときに、息子が突然歩けなくなった。医者に連れて行くとすたすた歩く。手をかけてやれなかったためだ、ストレスが原因だと医者に叱られた。長女は親が公務員でなくなるのは嫌だと泣き、二女は反発し「私は悪いことをして少年院に行きます」などと手紙を書いて店の裏口から投げ込んで来た。たくさんの人たちに支えられて、3人の子どもたちを育て上げた喜びはひとしお、と述懐する美由紀の苦労を思う。原発事故一か月後、東京に住む長女がレンタカーを何とか借りて、完全に復旧していない高速道路を走り、お祖母さん(秀耕の母)を親戚のところへ連れに来てくれた。「お母さんたちが動く自由ができるでしょ」と。そして、いよいよ市澤夫妻が避難を余儀なくされたとき、どの子どもたちも、手助けしてくれた。情報の提供、助言をしてくれる大人になってくれたことに、夫妻は感謝する。
 福島第一原発事故後、心配する客や知人から「フランスに行ってみないか」、「あいているテナントビルでやらないか」といったオファーが続々とある。そして、成長著しい中国、韓国、いや台湾でやるという手もあるよな、などとも一瞬高揚して考える。しかし、現実的になり、今までの配達先(相馬市、南相馬市)にも行けるようにと、福島市での開業を決める。働き者の市澤夫妻は、どこからお金が補助されるか、借りられるかが決まっていなくても、資金繰りと並行して、物件を決め、移転する。多くの村民が失意と不安の中にあり、いち早く再起の旗を掲げたいという気持ちが強かったというくだりに目頭が熱くなる。忙しい合間に東京電力による村内事業者向け賠償説明会に行き、中身の無さに、出向いたことを後悔する。本請求のための膨大な書類に腹立たしさを感じもする(弁護士に任せたという)。他方、政府からの無利子融資や補助制度についても「放射能を浴びせておいて避難せよと言い、避難先で仕事を再開するにはお金を準備したから借金してやり直せ」という話に村民たちは一様に憤慨したが、哀しいかな、無い袖は振れない、無利子融資を受けるしかない。その上で、公務員としての経験から、「補助金制度は一種の麻薬のようなもので、一度受け始めると、無くてはやっていけなくなるような不健全体質を作る性質を持つ。虚弱体質にならないよう、注意が必要だ」(28頁)と書く。酷い経験に打ちのめされず、不健全なものを警戒し、自助自立を追求する姿勢が素晴らしい。
 福島第一原発事故直後の緊迫感のある記述は、当事者の貴重な記録である。そして、飯館村の魅力的な活動も記録されている。学生や県内外の地域づくり活動グループと交流し村おこしをしてきた夢創塾、そして夢創塾が主催した「ほら吹き大会」で「ほら」という形で語られた村の夢のひとつとして実現した「若妻の翼」。美由紀も平成元年の第一回「若妻の翼」に参加し、フランス、ドイツを10日間旅をした。9月という農家にとって1年で一番忙しいときに、個人負担10万円を「牛一頭売ったらいけっぺ」との区長の声に後押しされて行き、そこで自立した女性たちに出会った。その経験により、封建的な村社会を作ってきたのは自分たち女性にも責任がある、女性も活躍できる村にしたいと悟ったという。「若妻の翼」参加者は、各地に避難した後も、ネットワークをつくり、結束している。
 避難になろうとしたとき、雑誌の取材を受けた美由紀は、「あなたにとって一番大切なものは」と質問され、「焙煎機です」と答えた。家族も大切だが、あえてこう答えた。コーヒーを焙煎し、お客様に提供する。豊かな人間関係をカフェを通じて、夫婦で共有してきた。焙煎機を持ち出すことは、一つの希望だった。避難直前、焙煎機のかたわらで「宝物」に愛おしく手を添えて微笑んで立つ美由紀の写真にも、涙が止まらない。
 市澤夫妻が大変な努力を重ねて追い求め築き上げてきたものを、福島第一原発事故は全てチャラにした。暮らしと夢の舞台を放射能で汚され、「とりあえず出て行ってくれ」と言われ…。秀耕は、「ひとりブルーベリー畑に立ち、呆然とすることがたまにある。喪失感は大きい。」と書く。万感の思いがこめられている。市澤夫妻の経験だけでも気が遠くなるが、飯館村のほかの村民たち、いや飯館村村民以外にも避難を余儀なくされた人たちのことを思うと胸が押し潰される。今までの努力労力を積み重ねて実現してきた暮らしの基盤を根こそぎ奪うような権限は誰にもない。それでも、「原発再稼働!原発輸出!」といった威勢のいい掛け声が聴こえるのはどういうことなのだろうか(秀耕が指摘する政官財の構造を考えればわかるのだろう)。
 薄いけれども、福島第一原発事故後のこの社会にとってとても大切なことが書かれてある本である。(良)
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